教育基本法と教育勅語 (2)、そして天皇陛下万歳という言葉 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

今回は前回の教育勅語の話との関連で、「天皇陛下万歳」と叫びながら死んで逝った日本の兵隊さんたちの意味を考えて見ます。

 

近年の大東亜戦争の時と言わず、それよりもっと昔の中世や江戸時代の庶民たちは天皇家についてどう考えていたのでしょうか。それに関連して、私の2013-07-27のブログ『平等、はあ?』で、天皇家やお公家さんが浸かったお風呂のお湯に関する逸話を紹介しました。この話に象徴されているように、中世の日本の庶民がこの方々をどんな偉いお侍さんよりも上の別格の存在だったと考えていたようです。

環海異聞

それと同根の話として、江戸時代に海洋遭難での漂流譚にもこれから紹介するこんな話があります。日本は鎖国していたので、現在の多くの人たちは、その当時の庶民たちが外国のことなど知らないのではないかと思っているかもしれません。しかし、そんなことはありませんでした。台風の通り道の島国日本では、漁夫やお米などの回送船の水主(かこ)と呼ばれた船乗りが嵐に巻き込まれ、希に欧米の船に運良く助けられて外国に長く滞在して無事に帰国した場合、彼らはその体験談を出版して、 鎖国中にもかかわらずその漂流譚はベストセラーになり、当時の多くの庶民が外国の情報を手に入れていました。『環海異聞』など何冊かが出版されており、わたしもそれらの何冊かの日本語の本をテキサス大学の図書館で見付けて、興奮して読みふけりました。そんな中の一つにこんな趣旨のことが書いてありました。

 

「西洋人は陸を見失った時に、ごちゃごちゃした変な機械を取り出して星の位置なんかを調べ、物差しや分度器を使ったり数を弄くり回したり、そんなややこしいことやって、やっと進むべき方向を占ったりしていた。その点、神国日本に生まれた私たちはなんと幸運なことだろう。陸を見失ったら、東西南北八方を一つ一つの紙に書いて、それを箱に入れて、金毘羅さまにお祈りをして、おみくじを引くように引けば、どちらに向かってゆけば助かるか直ぐに判る」

 

上記のお風呂の湯の話と言い、この話と言い、一般庶民の間では、天照大神を祀る伊勢神宮を頂点とした日本の神々を信じ、その総本家である天皇家に畏怖の念と共に特別な好感の眼差しを向けていたことを示しています。これらの話は、明治政府が国家神道なるものを言い出すずっと昔から、中世や江戸時代の庶民の間で、すでに天皇家を日本の象徴として捉え、日本そのものと同一視していたことを示す証左とも言えます。あるいは、そこまであからさまに意識していなかったとしても、無意識のうちに天皇家を日本の象徴と考え、日本そのものと同一視しする下地が十分できていたのだと思います。ですから、私には、「天皇陛下万歳」と唱えながら死んで行った人たちにとっては、「日本万歳」と同義語だったのではないかと思えるのです。すなわち、「日本よ生きながらえてくれ」と叫んでいた。

 

しかし、戦争で死んで行った人たちは、何も抽象的な「日本」を守るために死んで行ったわけではない。彼らにとって日本とは自分の家族であり、自分を育て上げてくれた文化のことであり、それを命を賭けて守ろうとした。考えてもみてください、誰が抽象的な「国」や「天皇」のために死ねますか。でも私だったら、国に残した自分の家族を守るために、そして自分を育て上げてくれた文化を守るために死ねます。

 

女性は命を育み、生きるためにこの世に生まれてきた。それに対して男性は家族を守り、それを守るためには命を落とすことも辞さない、すなわち、女性とは反対に、死ぬためにこの世に生まれてきた。私はそのように考えています。そして日本の危機に対して男どもが死に臨んだ時の、その信念の日本人的な表現としての言葉が「天皇陛下万歳」という言葉に象徴的に集約されて出てきたのだと思っています。日本人にとって、昔からずっと、天皇=日本=自分の家族、だったのだと思います。そして、今でもそうだと思います。