日本人てすごい 19 機能的差別と人格的差別 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

以前のブログ『平等、はあ? 』 2013-07-27で、日本は世界でも例外的に平等意識の高い民族であることを紹介し、そのよって来る根拠が日本が他のほとんどの国が経験して来た中央集権制度でやってこず、ドングリの背比べの封建制度でやって来たこと、また、その封建制度の維持のために天皇を象徴的に別格扱いをして、天皇の下に全ての日本人が平等であると言う意識が生まれたことを指摘しました。

今回、この平等意識を彷佛とされる実際にあった事例を紹介しましょう。これは、大分昔にどこかで読んだことがある話を記憶に基づいて書いてあります。残念ながらその出典は忘れました。

オーストラリアの労働組合の委員長が日本を訪れて日本の自動車会社の社長たちと食事をした時のことだそうです。トヨタ、日産、ホンダと、黒塗りの車がホテルに続々と到着してきた。お付きの運転手が深々と頭を下げ、社長は社長然としてふんぞり返って車からでて来るように見えました。その委員長は、

「ほれ見たことか、日本の階級社会、差別社会は私が想像していた通りだ。欧米に比べてずっと遅れている」

との印象をもった。

ところが、会議の途中の休憩時間にその委員長は日産の社長だったかトヨタの社長だったかが、他の会社の社長のお付きの運転手と話している場面を偶然に見て驚いてしまった。彼等は全く対等な人間として話していた。

これがもしアメリカだったら、フォードの社長のお付きの運転手もGMの
社長のお付きの運転手も、日本の運転手ほど深々と頭は下げないであろう。しかし、運転手と社長の上下関係は自社であろが他社であろうが同じだと見るのがアメリカ人だ。アメリカ人は上下関係を人格に根ざしたものと考えているようだ。だから、彼らが差別する時は人格的差別をしているのだと思う。

ところが、日本人の上下関係は組織を動かすための機能的な関係であり、その組織を離れてしまったら、全く対等な人間であると考えているようだ。だから、日本人による差別は機能的差別なんだ。

日本人てなんて平等意識が高いんだろうと、目から鱗が落ちたとのことです。