小保方さん、自己流だけが新しい発見に導くのですよ! | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

小保方さんが記者会見で、自己流で研究をやり、自己流で論文を書いたことを頻りに謝っておりました。

小保方さん、謝る必要はないのですよ。それどころか、それを誇らしく思うべきなのです。重要な科学の発見は、今までのやり方では見逃されて来たことを発見することなのです。その発見によって、今までとは全く違った世界を見せてくれる。だから、重要であり、だから自己流以外に重要な発見は出来ないのです。そこが、研究がお勉強とは違うところなのです。
今まで通り教科書に書いてあることを踏襲していたのでは見つからないから新発見と言われるのです。

今までのやり方にこだわり、それを固守している人には重要な発見は出来ません。優秀な研究者に共通な性格は、今までのやり方を大胆に無視することが出来る性格です。そんな性格の持ち主が書く論文が今までと違ったやり方で書かれていたとしても、何の不思議なこともありません。

今回の小保方さんの論文だって、残りの十三人の共著者も、彼女の自己流の論文に賛同したから共著者になったのでしょう。また、世界的に著名な雑誌ネイチャーの論文審査員も、その論文の書き方にこだわらず、内容の科学的面白さやこれからの発展の可能性を見たから、論文掲載の許可を出したのです。

大胆に
自己流で物事を押し進めることができず、その発見の内容の本質よりも形式がどうのこうのと言う連中は、本来研究者になるべきではなかったのです。多分そんな人は、既知のことに関して他人より早く理解できたり、要領よく理解できるので、学校でお勉強の成績が良かったり受験戦争に勝ち抜いて来た方なのでしょう。そんな方は、未知の物に挑戦する研究者ではなく、社会の秩序の維持に役立つようなお役人になるべきだったのです。

でもそれが解らず、研究とお勉強の違いを理解せずに、自称研究者になってしまった人が専門家と呼ばれる科学者の中に一杯います。これは本当です。

私自身、そんな自称研究者の極め付けに私の論文の査読をされた経験があります。その極め付け野郎は私の投稿した論文に対して、

「ここに書いてあることは今までに聞いたことがない。だからこの論文の掲載を薦めない」

だと。

私は、そのコメントに呆れ返り、直ぐにこの査読者の無資格ぶりを雑誌の編集者に抗議をして、査読者の入れ替えを要求しました。新しい査読者に変わったら、私の指摘した事象の斬新さや今までにない新しい視点を評価してくれて、直ぐに論文の掲載を薦めてくれました。

一流と呼ばれる研究の本質は、今までの見方や考え方では見逃されていたものに、その研究者自己流の独自の視点を入れて、全く新しい見方を提案することなのです。

だから、小保方さんは自己流でやって来たことを誇りにこそすれ、謝ることではないのです。