皆さんは多分神社での拝み方をご存知だと思います。二礼二拍手一礼ですね。
でも、余り知られていないもう一つの規則があるのですよ。それは、お願いする内容に関してです。お願いする前に邪念を捨て、頭を空っぽにして何もお願いしない、これが規則です。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
そもそも、こちらから一々願い事を教えて上げなくては、こちらに何が叶えば幸せになれるか解らないような神様なんて、全く信用できないとも思っているのです。やはり
「黙って座ればぴたりと当る」
じゃなくっちゃね。また、自分に何が起こったら幸せになれるかなんて、そんなことが解るほど自分が神様並みに優れているとは、日本人なら誰も考えていないからです。 だから、もし貴方が
「この人と一緒になれますように」
とお願いしても、もしそれで貴方が不幸になるとお見通しなら、神様は貴方の願い事が叶わないようにしてくれるそうです。
人間の性として、どうしてもお願い事をしたくなるのは自然なのですが、それでも、中央の大都会を除いて長いあいだ多くの村では名もない神と先祖様に対する祈祷は、
「今日も一日に無事でいられますように」
とか
「今年も無事に過ごせますように」
と言うのが基本だったようです。この祈り方は、新約聖書にあるキリスト教の神に向っての祈りと瓜二つですね。
今でも、かつて大字(おおあざ)と言われていた各村単位毎に神様が居りますが、その神社数は20万位あるそうです。これらの神様に名前が付いたのは、江戸時代に都会からやってきた平田神道などの神主や神人たちが地方に出向いて、これは何神、あれは何神と、延喜式などに載っている千二、三百ぐらいの神々の名を勝手に付与したものだそうです。柳田國男は、20万もある神にたった千余りの名前をつけることに無理があると言っておりました。各神社がおみくじだとか縁起物を売り出して商売をするようになったのは中世以降からだとも言っておりました。
また、特別な願い事を叶えてくれる神社は、『あなたでも神様になれる!』のところで紹介したような、理不尽な死を遂げて祟りをするようになった神様に特化していたようです。だから、雷神の天神様に合格をお祈りしたり、憎い相手に見立てた藁人形に毎夜五寸釘を打ち込んだ巳の刻参りの鉄輪で有名な京都の貴船神社に祭られている、天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に振られた磐長姫に縁結びをお願いするのは良いのかも知れません。
私事で恐縮ですが、私は昔大学受験で失敗し、志望校に選んだ大学をことごとく落ちました。後に博士課程に進む時にも躓いた。ところが今振り返ってみると、その失敗がなかったら、私の人生を全く変えて下さった日本の先生との偶然の遭遇もなく、また、プリゴジン教授の弟子になることもできなかったことは明らかです。その一連の失敗の全てが、私が学問の世界で生き残るために決定的に重要だったのです。この歳になっても創造的な営みに参加しながら恍惚としていられ、さらに偶然に巡り会えた若者たちの指導で彼等が成長して行くのを見る喜びに浸ることも出来ています。日々、やおよろずの神様に感謝しています。
願い通りの大学に入れず、ふて腐れている浪人や新大学生の皆さん、もしかしたら、私にも起こったように、あなた方の幸せのために神様はあなた方の願い事が叶わないようにしてくれたのかも知れませんよ。若いうちは、希望通りにならないことが辛いことは良く分かります。でも、与えられた毎日に感謝し、これからやって来る偶然を享受して精一杯生きて下さい。そんなあなたに私の好きな狂歌を餞に贈ります。
塞翁がむまいことなど起こりしは あとからうしがくるとおもへや
ついでに、これに対する私の返歌も載せておきます。
むまのあとうしが来るかと思いしに 我が生きざまにしかが来るなり