ねさよ撲滅運動 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

 

今様の若い人の話し言葉で、「それで~」とか「だか ら~」と語尾を延ばす言葉がときどき耳につきますね。特に女性に多いようです。何故こんな現象が起こるのか、それに付いて私の考えを披瀝してみます。これは、文語、口語、文語体、口語体、それぞれがどう違うのかと言うことの理解の助けにもなると思います。

そのことと後で繋がって来るのですが、ウン十年も昔の私が小学校の頃、学校の先生が「ねさよ撲滅運動」についてそれを子供の私たちも実行しなければならない、と教えていました。

私は東京育ちだったのですが、話をするとき「それでね」、「それがさ」、「それでよ」、あるいは「それいいじゃん」などと、語尾に「ね、さ、よ、じゃん」な どを付けて話していました。先生は、その語尾は汚らしいから、綺麗な言葉を話す習慣を付けるために、そのような語尾を付けないように話しましょう、と私た ちに教えたのです。もちろん、そんな習慣は身に付きませんでした。

ではなぜ身に付かなかったのか。実は、その先生は、上で述べた、文語、口語、文語体、口語体の区別、特に口語と口語体の区別を理解できず、さらに、なぜ口語にはそのような語尾が付いてしまうのか理解していなかったのですね。

簡単な説明では、文語は「昔の書き言葉」、口語は「現代の話し言葉」と言う具合に理解されているようです。これで大体良いのですが、もう少し突っ込んで理解しておかないと、この先生のように、出来もしない無理なことを言い出してしまいます。

「口語」には、現代の話し言葉としての「口語」と、現代の書き言葉としての「口語体」の区別があります。口語体は話し言葉ではなくて、現代の書き言葉、すなわち文語です。これは明治時代に坪内逍遥によって提唱された「言文一致」運動から始まった新しい書き言葉のことです。写真はその頃の「言文一致会」の新聞広告(国民新聞 明治34.3.12  1面)です。拡大して見て下さい。例文には句読点が全くないのが面白いですね。

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この「口語」と「口語体」をはっきり区別していないと現代の文章を書けなくなってしまいます。ときどき

「口語で文章を書くとは、自分が現に話しているように書くことである」

と言う方がありますが、絶対にそんなことはありません。

口語体の例は、 
 

「山道を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

 

です。

 

これを口語で言うと、

 

「えーと、山道を登りながら、こう考えたんだよね。そう、山道を登りながらね。知に働けば角が立つだろう。情に棹させば流されるしね。それに意地をねー、意地を通すと窮屈なんだなんてね。まあとにかく人の世は住みにくいよねー。」

 

となります。

 

文章と違って、話し言葉(口語)は話すそばからその言葉が消えて行ってしまうので、それが本当に相手に伝わっているかどうか、話し手は不安になります。そこで、口語(話し言葉)では、口語体とは違って、同じ言葉を繰り返したり、「ねー」とか「よね」とか「だろう」とかいう言葉を添えて、「ねえ、そうだろう、あんた聞いてる」という確認を一々取りながら、なんとか話し手の不安を取り除こうとしながら話をしているのです。

 

ですから、話し言葉をそのまま文章にすると、くどかったり、余計な言葉が語尾に付いていたりして、逆に読みづらくなってしまいます。そこで、この余計なものを口語から取り除いて書いた文章、すなわち「文語」のことをを口語体と言います。話し言葉では、逆にその余計なことをつけないと、言いたいことが相手に通じない危険性があるのです。
 

他の例では、一昔前の東京の女性たちは、「直ぐに行くわ」などの「わ言葉」を使っていましたが、最近の若い女性からは余り聞かれなくなったようです。外国かぶれした文法学者がヨーロッパなどの文法で日本語の構造を理解しようとして、この「わ」を上の「ね、さ、よ」の類いの語尾だと誤解しているようだと、柳田國男が言っておりました。

 

彼は日本語の方言を分析して、日本語には、西洋にはない独特の文法構造の一つとして、語尾に主語を持って来ることがあることを突き止めました。確か、広島辺りの方言だと思いますが、彼は、

 

「行くだなんた」

 

「行くだなまえ」

 

という例を挙げていました。前者は丁寧語で「行くだ貴方」、後者は親しい間の言葉で「行くだお前」と言うことだそうで、共に、主語が最後に来る。

 

これと同じ構造が「直ぐ行くわ」で、それは「直ぐ行くわたし」の略であろうと言うのです。それが、段々と忘れられてしまい、この「わ」が単なる語尾であると誤解されてしまったのであろうと、柳田國男は主張しておりました。

 

また、どういうわけか、最近では男言葉と女言葉の差が無くなって来て、女性が男言葉を話すようになってきました。だから、この「わ言葉」も滅多に聞かれなくなってきました。それに、直ぐ下で紹介しますが、テレビドラマでは、口語ではなく口語体で話している滑稽な姿をしばしば見かけます。

 

そんなこんなで、今の若者たちは、語尾を落す傾向が強くなってきて、口語ではなく口語体に近い形で話すようになって来たようです。ところが、上でも述べましたように、口語では、不安を取り除くための代替えを用意しない限り、何かでその不安を解消しなくてはならない。

 

その方法の一つとして、語尾を延ばすやり方が昔からありました。例えば、古代はエサのことを、エと一言で言っていました。しかし、これでは不安でしょうがない。だから、語尾を付けて、エサというか、あるいは、地方によっては、エーと言ってその不安を解消したようです。

 

九州や関西では今でも、「めーが痛い」、「はーが痛い」、「いーが痛い」などと言う場合をしばしば聞きます。それと同じような心理から、今の若者たちは、始めに述べた「それで~」とか「だから~」と語尾を延ばす言葉を頻繁に使うようになったのではないかと、私は考えています。

 

さて、この「口語」と「口語体」の違いに気が付くと、テレビドラマの中の会話が、それを知らなかったときよりもずっと面白くなりますよ。ドラマの脚本を書く人の中に、時々この口語と口語体の区別を知らない人がいて、会話のやり取りを口語ではなくて、口語体で話している場面がありますから。例えば最近見たサスペンスドラマの中である女性が過去を回想する時に、途中に「えー」とか「あー」とか「ね、さ、よ」とかいう言葉を一切入れずに「、、、した。」や「、、、だった。」の言葉を繰り返していました。私たちってこんな話し方はしませんよね。そんな場面に出会ったとき、口語体という名の「文語」のことを思い出して下さい。

 

ついでに、最近のEメールやここの投稿などで、絵詞として例えば

 

m(_ _)m

 

のような物を添える方がいらっしゃいますね。これは、話し言葉すなわち口語ではなくて、文章の中だけに現れる表現法なので、これらの絵詞が添えられた文は立派な文語です。

 

あっと、文語体について何も触れませんでしたが、文語体とは昔の日本人がその当時の言葉で口語体で書いていた文語のことです。ところが、書き言葉は話し言葉より保守的で、人々はどの国でも、どういうわけか、その昔の言葉を理解し、残すことが教養あることだと、何の根拠もない思い込みをしていたようです。だから、書き言葉には今では口語では使われなくなってしまった言葉が一杯残る。その結果、時代と共に、書き言葉と話し言葉がどんどん乖離してくる。それが、文語体です。その乖離を何とかしようと言い出したのが、上で述べた言文一致運動です。

 

でも、文語体は口語体よりも遥かに歯切れが良く、それ特有の美しさを持っています。だから、何も根拠がないとは言いましたが、文語体で文章が書けるようになっていると、美しき日本語残すことこそあらめとぞ思ふ。

 

さて、結論です。

 

語尾延ばしの話し方は、それを批難するだけでは決して無くならない。不安を取り除くための代替えの表現を用意してあげる必要がある。