最近よく寝る時に横になりながら、
ありがたいなあ、なんだか申し訳ないなあ、
そう思うことが多いです。
世界を見渡せば、生きるのに不自由な国がたくさんあります。
食べるものさえ思うようにならない貧しい国、
いつ爆弾が落ちてくるのかと気の休まらない国、
いつ戦場に駆り出されるのかと不安いっぱいの国、
自分の言いたいことが言えない独裁の国、
それらのこととは今のところほぼ無縁でいられることに
それらの国の人たちに対して、何か後ろめたさのようなものを
感じたりします。
今のわが国に対して満足しているのかといえば、
とんでもない、不満いっぱいなのですが、
今の我が身について満足しているのかといえば、
おおむね満足してはいるものの、
人並みに不安・心配があったり不満はあります。
でも、今のところ生き辛いかといえば、そんなことは
ありません。
現に、このように布団にくるまって、これから眠れる
わけですから。
なんか、大げさなことを言う人だなあと思うかたも
いるでしょうね。
ヒマなんだわと片付けられるかもしれません。
これをヒマというかもね。
さて、今読んでいる「ヒトのからだー生物史的考察」
(三木成夫著 うぶすな書院)という本の初めにこんなことが
書いてありました。
人はだれでも自分の体に対して関心がある。
思春期には、ただひたすら顔形(かおかたち)や頭脳・腕力と
いったものに、それが更年期になると、いつのまにか
血圧の値やガン細胞の有無に関心が変わる。
老年期には、やがて“死”というのっぴきならない事態に
直面した時、それまでの関心事はたちまち色あせてしまう。
「ヒトのからだには、われわれの想像を絶する無数のいとなみが、
休みなく行われている。
しかし、今述べたように、一般の関心がそのような枠の内に
限られるということは、要するに“食と性”、さらには“生と死”に
対する人間の煩悩(ぼんのう)が、いかに根強いかということを
物語るもので、じつはこれもまたやむを得ないと思わねばならない。
しかし、われわれはここで、次のようなことを考えてみる必要がある。
それは、このような観点からとらえられ、組み立てられた人体という
ものは、しょせん、いわば“欲の窓”からながめたひとつの景色に過ぎず、
人間本来のからだつきからは、ほど遠いものであるということを。
つまりこの肉体もまた、自然のもろもろの出来事と同じく、われわれの
注文のとどかぬ世界で動いているのだから。」
私たちの体は、その細胞や遺伝子が絶え間なく活動してて、それこそ
奇跡のような連携の中で私たちを生き続けさせてくれていることは
時々思うのですが、あらためてハッとさせられました。
朝起きたらちょっと頭が痛かった、その時にも私たちの体はどこも
かしこも働き続けているんですね。
頭痛を引き起こしたそこだけでなくて。
今このブログの文を書いている時にも、目や指、脳のどこかばかりでなく
全身が働いてくれています。
ママが子どもを叱ってる時にも、口や脳のどこかとどこかばかりでなく、
すべての細胞や遺伝子が働いてくれています。
今生きられているのは、この環境だけでなく、知ってる人、知らない人
含めて直接・間接にお世話になってる人のおかげ、これは歳を重ねる
ごとに思いが強くなっていますが、やっぱりこのからださんだね。