もう20年以上前に亡くなってますけど、高橋竹山っていう
津軽三味線の演奏家がいました。
たまたまYouTubeで演奏としゃべりを久しぶりに聞きましたけど、
たった1本の津軽三味線でアメリカの人たちをも魅了する
迫力ある演奏でした。
私、めったにライブに出かけませんが、二十歳前後だったでしょうか、
名古屋のライブハウスまで出かけて聞いたことがあります。
津軽弁で、時々聞き取れない言葉もありましたが、「訥々(とつとつ)と」
話すというのでしょうか、今では想像できないくらいの過酷な
身の上話しを感情的にならず語っていました。
竹山は幼少時に、はしかにかかり、当時は治療も受けられず、ほぼ
視力を失います。
東北地方ではその頃、目の不自由な人は三味線を覚えて、家々を
回り、演奏をする代わりにお米や食べ物をもらう「門付け(かどづけ)」
をするしか生きていく方法はありませんでした。
特に冬は雪が多くて、好きで始めた三味線じゃないけど、凍える
指で必死に覚えたそうです。
「習いたての頃は夢中で弾いていたんだけど、
その頃はもう、やかましくてやかましくて」
そんなことを聞いた記憶もあります。
最初はお師匠さんと門付けに同行したのですが、数年後に独立すると、
食うにも困る生活になります。
その頃、東北ばかりか北海道やカラフトまで回ったそうです。
カラフトでは、旧ソ連の人たちが聞いてくれて親切にしてくれたそうです。
北海道では、空腹でどうしようもない時、当時朝鮮半島から強制労働で
やってきた人に、自分たちも生活が苦しいのに家に入れてくれて
ご飯をよばれたそうです。
そのご飯がとてもおいしかったことが忘れられずに、後にその人たちが
歌っていた「アリラン」を変奏曲にして演奏しています。
ある有名な浪曲師から伴奏者として招かれ、それを聞いた音楽
プロデューサーの勧めでレコードを出し、全国的に有名になって
いきます。
どうでしょう、今の50歳台以下の人ではとうてい想像もできない
くらい貧しい日本のそれも東北地方での暮らしです。
いつのたれ死んでもおかしくない状況を生き延びて、演奏し続け
たのです。
亡くなる少し前まで演奏を続けましたが、体に染み込んだ演奏は
衰えることはありませんでした。
高橋竹山の言葉です。
「眼の見えない人は 眼の見える人よりも
見えるものがあるんですよ
俺たちは眼で見えないから 耳で読むんだ
三味線だって 眼で覚えるもんでねえ
耳で覚えるんだ
眼が見えないのは そりゃ不便だけど
しかし見える人がなんでも眼にたよるのは
どんなもんかな
人の気持ちってものは
眼が見えるからって 見えるもんでねえ」