この本の序章に衝撃的な事実が語られます。

 

小学4年の国語の時間に、「ごんぎつね」のある箇所について

4人ほどのグループに分かれて話し合った結論を述べました。

 

8グループのうち5グループが発表したのは、

「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」

「死んだ人は燃やす代わりにお湯で煮て骨にした」

「死体をそのままにしておいたらばい菌とかすごいから、

煮て骨にした」

 

えっ?「ごんぎつね」に人を煮る場面なんかあった?

 

実は、兵十の母親の葬儀で村人が集まり、家の前では

村の女たちが大きな鍋で料理している。

〈よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした

女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの

中では、何かぐずぐずにえていました〉

原作では、ごんが見た光景なので何かを煮ていると書かれています。

 

この部分を「鍋で何を煮ているのか」、話し合わせたその結果です。

 

この授業を見た著者が校長先生に尋ねたところ、これはちょっと

極端なケースだが、似たようなことはしばしばあるとのことです。

 

その校長先生は、今の子たちに欠けているのは、読解力以前の

基礎的な能力、例えば登場人物の気持ちを想像する力、別のことを

結びつけて考える力、物語の背景を思い描く力などで、それらの

力が不足しているので、常識的に照らし合わせればとんでもないような

発想をしてしまう、そう考えています。

 

PISAという国際的な学力調査で、日本は数学的リテラシー、科学的

リテラシーは上位だが、読解力が低いという結果が問題となり、

現在の学習指導要領でも「読解力、表現力」重視になっています。

 

今の子どもたちは、昔と比較にならないほどの大量の情報に

取り囲まれ、常にそれを取捨選択する必要性に迫られているので、

それらの情報を整理したり、処理したりする能力はあるのかも

しれません。

 

でも、

一つの物事の前に立ってじっくりと向き合い、そこから何かを

感じ取ったり背景を想像したりして、自分の思考を磨き上げていく力は

まったく別物で、これが今の子どもたちの多くに欠けているのでは

ないかと著者は指摘します。

 

先の校長先生は、

「今の子は知識の暗記や正論を述べることだけにとらわれて、そこから

自分の言葉で考える、想像する、表現するといったことが苦手なので、

国語に限らず、他の教科から日常生活までいろんな誤解が生じ、

生きづらさが生まれたり、トラブルになってしまうのです。

言ってしまえば、子どもたちの中で言葉が失われている状態なのです。」

そう分析しています。

 

著者は今までのノンフィクションの取材で出会った子どもたちのことが

浮かんだといいます。

(著者には、国内外の貧困、災害、事件などをテーマに数多くの著書が

あり、貧困な子、事件を起こした子たちを取材しています。)

自身の経験から、校長先生のお話がよく理解できるようです。

 

著者は、

「国語力とは、社会という荒波に向かって漕ぎ出すのに必要な

『心の船』だ。語彙という名の燃料によって、情緒力、想像力、

論理的思考力をフル回転させ、適切な方向にコントロールするからこそ

大海を渡ることができる。」と国語力を例えています。

 

序章の最後に、別の中学の校長先生の言葉が紹介されます。

 

「国語力は、学問だけでなく、人間が生きていく上であらゆることの

基礎となる力だと思っています。見知らぬ世界を我がこととして想像し、

他者の心のひだまでを感じ取り、自分の考えを整理し、相手に伝わる

ように適切な言葉で発信していく。それは人間が広い社会の中で

独り立ちして生きていくために必要な全人的な能力なのです。

この力をつけることは健全な社会を築くことであり、逆にそれが

弱まってしまえば社会全体が不健全なものにもなりかねないのでは

ないでしょうか。」

 

私たちが生きていく上で、そして日本の社会がきちんと成立する上で

とても大切な国語力です。

どうやらそれが低下、不足してきているようです。

 

(これをまとめながら思ったのですが、国語力の問題は今の子供たち

だけのことでなく、私たち大人自身振り返ってみるべき問題じゃ

ないでしょうか。)

 

第1〜3章までは、家庭、学校、ネットの順に国語力が脆弱に

なっている実態が検証されます。