ここのところ、謝礼ということが気に掛ります。
教授料がいくらだと妥当なのか。
こちらは10円でも受け取れば、責任を持つべきだと考えているのですが。

教授内容が素晴らしいから、いくらが妥当、というものでもないと思うのです。
生徒さんによっては何の価値もないと考えられたり、
あるいは高すぎると感じられたりすることもあるでしょう。

でも、私は太極拳を切り売りしているのでしょうか?
太極拳は商品なのでしょうか。

少なくとも今頂いているものは、
生徒さんたちからの意思で頂いているということで、
自分からいくらだとお願いした記憶はありませんし、
失念された方を追求したこともないはずでした。

つまりは、お金をもらおうが、もらえまいが、
ほとんど関係ないと思っているのですネ。
それでも頂ける謝礼を頂くのには経済的な意味よりも
むしろ大切な意味があるからなのです。


様々なお話や思いを頂く中で、
自分が忘れないようにとここに記憶しておこうと思います。

そもそも(師匠-弟子による)相伝による太極拳も
弟子から謝礼を頂くことはなかったはずです。
そのかわり、弟子は師匠の言い付けを絶対達成する必要がありました。
達成できなければ、破門になるだけです。
師匠が絶対だったのですね。
このような関係は、少し現代的な感覚からはズレているでしょうし、
特に異性の師匠-弟子の関係では問題が多々あったようです。
特に弟子が魅力的な方の場合、もめ事が起こりやすいようです。
ですから、現代では謝礼を受け取ることで、
指導者は達成できない生徒を容認することになっています。
近代中国の武術会でも、このような構造的な師弟関係があったそうです。
つまり、学生と弟子の区別です。
ここに日本的な感覚を加味すれば、
謝礼とはつまり、指導者の責任の所在であり、
生徒さんの器量の容認だという意味になるように思います。
別の言い方をすれば、
謝礼を受け取らない指導者は、
指導の責任を放棄していることになるでしょう。

確かに過去の経験に照らせば、
謝礼を受け取らなかった生徒さんは休み勝ちになり、辞めていかれました。
なので、一定のレベルを考慮したり、
生徒さん一人一人の状況を勘案して、
今は事を決めるようにしています。

生徒さんに高いと思わせるのは、
指導者の技量不足です。
指導者の審判者こそ生徒さんたちだと心得るべきでしょう。

これを読まれている生徒さんが、
私の指導が高いと思われたなら、
遠慮なくおっしゃってください。
太極拳を経済的理由で辞めるなら、
それ以上の損失はないのです。

太極拳の場合、
すばらしい指導者は数多くいらっしゃいます。
どちらの先生でも、私から紹介させていただきます。
入門十年という言葉は、太極拳門のことであり、
指導者のことではありません。
「わたしのことが嫌いになっても、
どうか、太極拳のことは嫌いにならないで下さい」-キンタロウ(嘘)
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でも、人間の集まりのことですから。
いろいろあるんですよね、実際。
ここが一番問題になる。
そして興味深いし、嬉しいところですね。