天文20年(1551)、日向の三位公(伊東義祐)は、
大仏堂の建立を思い立ち、先ず南都(奈良)の仏師・源五郎兄妹を召し下し大仏を造らせ、
大仏堂は大工の奥野筑前守に命じて、同年6月8日より柱立した。
何れも程なく成就したため、その年の12月28日に大仏を安置した。
翌天文21年、今度は佐土原に寺を建立し、金柏寺と名付けた。
同年10月28日、大鐘を鋳てこれを寄付した。
その銘文に『日薩隅三州太守藤原義祐』云々の文字があった。
また、海道衆と号した10人の僧侶に、
笈(修験者や行脚僧が仏具・衣類・食器などを入れる箱)を背負わせ、
昼夜仏名を念じて歩行させ、或いは5人づつ左右に分かれて終日仏論を論議させ、
三位公自身も袈裟を着て捨身の行を行った。
また、或いは諸僧を集めての法問を行った。
三位公のこのような仏教への耽溺は、伊東家中の行儀を乱し、我儘の事のみであったため、
国内からの嘲りも多く、諸大将も国家の大事と思い、密々に評議を行って、
「義祐様を押し籠め(強制引退)よう。」
となった。
しかしここで、落合源左衛門尉兼永が異論を唱えた。
彼は伊東家諸将の中でも忠勇無双の男であり、
諸将の評議を聞いた上で、
「一度諌めてそれでも承知なければ、そういうやり方もあるだろうが、
最初から少しも諌めず押し籠めを行うのは、臣たる者の道ではない。
とにかく私に任されよ。」
そう言って家にも返らずそのまま君前に出て、諸将の疑念をありのままに言上した。
彼は三位公の顔を見て声柔らかに諌めると、三位公も自分の行いを大いに悔悟し、
「以後は、何であっても各々の異見に従う。」
そう言って以後、行いを改めた。
「思っていたのと違い、賢君であられる。」
これに日向の人々は安堵の思いを成した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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