筑前国に、秋月氏と言う豪族がいた。
秋月氏は機を見て毛利、大友、竜造寺、島津と恭順を重ね、自領を保っていた。
戦国の末、豊臣秀吉は、九州制覇を志し、大軍を率いて西下していた。
この時、秋月家当主・秋月種実の命を受け、
家臣・恵利暢尭は、敵情視察のため広島まで出向いたのであったが、
秀吉軍の装備の素晴らしさを目の当たりにして、
大いに驚き、急ぎ帰って和睦の賢なることを勧めた。
だが秀吉軍の力を侮った種実は、
「さても暢尭、臆病な事よ。はや秀吉の家臣となったか。」
と嘲り、他の重臣達も暢尭を笑い飛ばした。
己の言が受け入れられぬと悟った暢尭は、妻と子供を城の側にある大岩に集め、
「もはや秋月もこれまで。」
と妻子を刺殺し、自らも切腹。
諌死したのである。
享年三十八歳の若さであった。
ほどなくして秋月種実は、秀吉にひざを屈する。
待っていたのは、必死に守り抜いてきた先祖伝来の地、
筑前秋月より日向財部への転封であった。
転封が決まり、その地を離れる事になった種実は、
恵利暢尭一家が諌死した大岩の前で下馬し、落涙しつつ手を合わせて去っていったと言う。
後年、筑前黒田藩藩主・黒田長與は、恵利暢尭の忠節を称え、
大岩の近くに鳴渡観音建立した。
今も大岩は「腹切岩」と呼ばれ、秋月城の側にひっそりと佇んでいる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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