恵利暢尭、腹切岩☆ | げむおた街道をゆく

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筑前国に、秋月氏と言う豪族がいた。

秋月氏は機を見て毛利、大友、竜造寺、島津と恭順を重ね、自領を保っていた。
 

戦国の末、豊臣秀吉は、九州制覇を志し、大軍を率いて西下していた。
 

この時、秋月家当主・秋月種実の命を受け、

家臣・恵利暢尭は、敵情視察のため広島まで出向いたのであったが、

秀吉軍の装備の素晴らしさを目の当たりにして、

大いに驚き、急ぎ帰って和睦の賢なることを勧めた。
 

だが秀吉軍の力を侮った種実は、

「さても暢尭、臆病な事よ。はや秀吉の家臣となったか。」

と嘲り、他の重臣達も暢尭を笑い飛ばした。
 

己の言が受け入れられぬと悟った暢尭は、妻と子供を城の側にある大岩に集め、

「もはや秋月もこれまで。」

と妻子を刺殺し、自らも切腹。

諌死したのである。

享年三十八歳の若さであった。
 

ほどなくして秋月種実は、秀吉にひざを屈する。

待っていたのは、必死に守り抜いてきた先祖伝来の地、

筑前秋月より日向財部への転封であった。
 

転封が決まり、その地を離れる事になった種実は、

恵利暢尭一家が諌死した大岩の前で下馬し、落涙しつつ手を合わせて去っていったと言う。

後年、筑前黒田藩藩主・黒田長與は、恵利暢尭の忠節を称え、

大岩の近くに鳴渡観音建立した。

今も大岩は「腹切岩」と呼ばれ、秋月城の側にひっそりと佇んでいる。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 秋月氏の最盛期、秋月種実

 

 

 

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