関ヶ原の時、田中筑後守(吉政)の家臣で、田辺甚兵衛という者の子、
父は早世して甚兵衛の名を継いだが、10歳にて陣立てした。
彼の家臣たちが敵を突き落とし、甚兵衛を馬より抱き下ろして頸を取らせた。
幼少の子として比類なき儀であると、その頃、世間で大変に賞賛された。
後に、黒田長政が、田中吉政を訪れた時、四方山の物語の中で、
吉政がこの甚兵衛の事を語った。
長政はこれに大いに感じ入り、甚兵衛を呼び出し盃を与えた。
この時、
「甚兵衛を補佐した家来どもも呼び出して、様子を尋ねよう。」
という事になり、甚兵衛の家来たちも出頭した。
長政が当時の様子を具体的に尋ねると、彼らはこう証言した。
「馬より抱き下ろした時、刀を抜いてかかりましたが、わなわなと震えていました。
それを家来どもに恥ずかしめられ、震えながら立ち寄りて頸を討ったのです。」
これを聞いて長政は、再び大いに感じ入った。
「さてはますます勇士の機がある。
震えずにかかったなら、十方無き故(頭がからっぽだから)と言うべきであろう。
恥ずかしめられてかかったのは、義をつとめて致すという行為だ。」
そう評したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!