唐津藩の藩主となった寺沢広高は、新田開発の一環として、
防風林・防砂林として植樹を行った。
藩の庇護の下、禁伐の掟(伐採は死罪)はもちろんのこと、
燃料としての落葉の採取も厳しい制限が課せられていたという。
後年、藩主の改易や移封により主家が変わっても手厚く管理され、
「日本三大松原」の一つとして現存している。
ちなみに、寺沢広高は、
「この中に自分が愛してやまない松が7本だけある。」
と言ったというが、どの松とわざと指定しなかった。
これは住民に、
「もし自分が粗末にした松が、殿様の愛した、その7本のどれかだったら。」
と思わせることで、全ての松を大事にせざるを得ないように、
心理的に圧力をかけたものといわれている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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