湯田宗右衛門は、徳川義直に仕える前は、宇喜多家に仕えており、
さらに浪人として大坂城に入城した際には、毛利勝永の組下にあった。
ある日、同輩たちにせがまれ、大坂城での思い出を語った。
「毛利豊前(豊前守・勝永)は旧臣・浪人に区別なく、組下の者にやさしい方であった。
豊前守は人柄温厚であり、とかく揉めがちな大坂城にあって、
譜代の者ら(大野治長等)と浪人衆(真田、後藤等)との間を取り持ち、
いつもニコニコして怒らず、一度約束したことは必ず守る人で、みんなから信頼されていた。
豊前守が、ある日こうぼやいたことがあった。
『家康公が離間の策を用いるなら、たやすくこの大坂城を滅ぼせるだろう。
譜代衆はその立場を誇り、虚勢を張って我々の言うことに耳を貸そうとせぬ。
隠岐守(後藤又兵衛)はただ功名を挙げんと急ぐばかり。
左衛門佐(真田幸村)は狷介で身内(真田旧臣)とばかり親しみ腹を割って話そうとせず、
長宗我部もまた土佐衆とのみ話す。これではこの城も長くはあるまい。』
と。」
人々は宗右衛門の話を聞いて、大坂城がああもはやく落ちたことに納得したとのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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