毛利勝永は、関が原の戦いで石田三成に与力して領地を没収され、
父・勝信と共に土佐にて蟄居した。
父・勝信の死後、勝永は茶道を嗜んでいたため、
その家臣である窪田甚三郎を京大阪に遣わして、
茶器を求めさせた。
時に大野治長は、この窪田甚三郎の従弟であったので、
このつてを頼り秀頼の様子を聞いていた。
慶長15年の冬、秀頼はついに挙兵に及び、勝永もそれを勧誘された。
かれはそれに応じようと思ったが、
その夜、密かに妻に語った。
「私が先年、誤って石田方に属したために、
現在妻子まで困窮させていることは見るのも忍びない。
いま、私にはひとつの志願があるが、濫りに口外できないことである。」
勝永の妻は言った。
「私がこの家に嫁いだのも、前世よりの宿因のためでしょう。
どうしてそのように深く嘆くことが在るでしょうか?
女が、一度嫁いでより夫とともに浮沈するのは、女の道というものです。
これを憂うことなどありません。
どうかあなたの御志願を言って下さい。」
「…我家が、武名を以って天下に振るうこと6代にわたる。
なのに今、この辺鄙な場所に流されて虚しく朽ちるという事、本意ではない。
幸いにも今、天下が東西に分かれて戦いが起ころうとしている。
私は秀頼君に属して今の汚名を雪ぎたい。
だが、私がこの地を逃れ出れば、きっと妻子は捕らえられ禁錮と成るだろう。
これを私は憂いているのだ。」
妻は、これを聞いて笑い出した。
「あなたの言うことは、間違っておられます。
大丈夫たらん者が妻子のためにほだされて武名を汚すなど、真に恥ずべきこと。
速やかにこの地を去って、先祖の家名を興すべきです!
その時心に、妻子のことを止めてはなりません。
あなたがもし討ち死にすれば、私もこの海に身を投げて死を共にしましょう。
勝利すれば、再度お顔を拝しましょう。」
勝永はこれに大いに喜び、大坂に至ろうとしたが、土佐では厳重に監視されていたため、
国主である山内忠義の元に、関東に味方するためと言って、
嫡子を連れて土佐を脱出し大坂に籠城した。
はたして忠義は勝永の妻子を捕らえて、駿府の家康にその処置を尋ねた。
家康は、これを聞き、
「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。
彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」
そう命じた。
これによって山内忠義は勝永の妻子を高知城中に入れて養育した。
毛利勝永は翌年5月5日、大坂落城の時、天王寺において奮戦し、潔く自害したが、
これらの名誉はすべて、その妻のおかげであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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