荒木村重の有岡城が陥落し、黒田官兵衛が救出された暫く後、
天正8年(1580)のことである。
播磨一国をほぼ平定した羽柴秀吉は、黒田宗円(職隆)・官兵衛親子を呼び、
「播磨統治の居城はどこにすべきだろうか?
そなたたちはこの播磨の案内者であり、又老巧の者であるから、見解もあるだろう。
どうかそれを話してもらいたい。」
と尋ねた。
これに黒田宗円申し上げる。
「どこと言っても、私が今居る姫路ほどの城はありません。これを差し上げましょう。」
これに驚いたのが秀吉である。彼は宗円に、
「せっかくの申し出であるが、重ね重ねの忠を成した者の居城を召し上げるなどというのは、
これは不義であり、且つ世間の、わしの弓箭に対する疑いともなるであろう。
黒田は今のままの領地に召し置き、わしは他所で自分の居城をさがすつもりだ。」
こう、断固として言った。
ところが宗円、重ねて申し上げるに。
「恐れながらそれは、御分別違いのように思います。
これが無理矢理に領地を召し上げられるのなら当然、それを非難する声も上がるでしょう。
しかし我ら親子が差し上げると言っている以上、
羽柴様を頼もしからざる人物だと思う人間は、少しも存在しないはずです。
当国統治の首府とすべき場所として、
姫路ほど条件の整っている所はこの播磨は言うまでもなく、
全国を見渡しても稀なほどです。
現在、この播磨は平和に治まっているように見えます。
しかしこれは、隣国の大敵を抱え、
何よりも反織田勢力の残党たちが未だ国内に多く存在している中、
羽柴様の諸軍勢が日夜警備に心を砕かれ、
野原に陣を張り諸卒に労をおかけしている故であります。
実に勿体無いことだと感じ入っております。
現在の姫路城は普請堅固ではございませんが、野陣よりは増しでしょう。
見苦しい城であることは、今さらどうにも出来ませんが、どうか直ぐに御移り下さい。
私は近くの民家へと引っ越します。」
と宗円は言い捨て、秀吉の返事も聞かず姫路へと帰ってしまった。
そしてすぐさま近所の民家に引越し、姫路城内は本丸以下畳の表替えをし大掃除、
家臣の家まで綺麗にするよう申し付けその上で、
「本日は吉日です。今日中に姫路へ御移り下さい。」
と秀吉に申し上げる。
これには秀吉、
「下知は好し、御意は重し。それほどまでに言うのなら。」
と、不承不承ながらも姫路へ移ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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