1615年(慶長二十年)の大坂夏の陣、
道明寺の戦いにおいて、後藤又兵衛は戦死をしたと伝わる。
しかし当地に伝わる言い伝えでは、
宮ノ下(現在の愛媛県伊予市)にある長泉寺の住職が伯父であったので、
後藤又兵衛はそこを頼って各地を旅してまわる旅僧の姿となって、
伊予へと落ち延びてきたという。
そして久万の山中にある岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)に隠れ、
そこで日々座禅をして過ごしていたという。
ある日のこと、この地を治める加藤嘉明が岩屋寺を訪れることとなり、
先走りが寺を訪れ僧達に向かって境内を掃除して清めるように伝えたところ、
この時、本堂で座禅を組んでいた又兵衛は、これを聞いてかっと目を見開き、
「殿様というのは、左馬助か。」
と、先走りに聞こえる声で呟いた。
これを聞いた先走りは無礼な奴だと思ったが、
只者ではない雰囲気を放つ又兵衛の様子を見て何も言わずに引き返し、
三坂峠で休憩していた加藤嘉明の前に出ると、このことを報告した。
報告を受けた嘉明は、
「もう引き上げじゃ。帰るぞ。」
と言い、岩屋寺へ赴くことなく引き上げたという。
その理由は明らかではないが、又兵衛が岩屋寺へ居るのでないかという情報は、
その耳にも入っており、親友であった又兵衛を、
捕えることになるのを忍びなく思った嘉明は引き上げたのではないかとも言われている。
この後又兵衛は伯父のいる長泉寺へ移り、
そこで地元の人たちと打ち解けこの地で生涯を終えたという。
今では又兵衛のことを書いた碑が長泉寺の境内にあり、
その墓といわれるものが長泉寺の下手にある大塚家の屋敷の中にある。
この墓の中には、
又兵衛が大事にしていた半弓や種子島などもいっしょに葬られてあったという。
なお、又兵衛の笈(旅僧などが、いろいろな物を入れてせおう箱)だけは、
長泉寺に残されていたともいわれる。
またある言い伝えでは、又兵衛は伯父に迷惑をかけてはいけないと、
弟の市郎左衛門の名にかえ、弟になりすまして、
松前の筒井に移り住んで妻をもらって帰農したともいう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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