黒田騒動☆ | げむおた街道をゆく

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先代藩主である長政は、

その臨終の際に息子・忠之と、大膳を読んで遺命を伝えると、
「我が遺言の証拠は、大膳である。」

と告げていた。

そんな訳だから大膳も何かと諫言を呈することとなる。

ただし、大膳にとっては忠言のつもりであったが、

忠之の方ではそうは思わなかった。

自分が何かするたびに、
文句を言ってくる大膳を、だんだんと鬱陶しく思ってきたのである。

御家騒動と言えば先代からの老臣と、新たに取り立てられた側近との対立と言うのが、
典型的な例であるが、この黒田騒動も例に漏れなかった。

忠之の児小姓から出世して、
八千石まで禄することになった、倉八十太夫という男である。

こうして倉八を得た忠之はだんだんと側近政治を始め暴走していくこととなる。
幕府の思惑を配慮して諸藩が軍縮をしていく中、幕府禁制の大型船を建造、
倉八に命じて足軽二〇〇人を新たに召し抱えたりした。

更に大膳の父・利安が、寛永九年(1631)に没すると、

領地を召し上げ、大膳処断のために、
幕府の有力者に了解を取り付けようと奔走、

おまけに大膳の娘は坊主か町人の嫁にするとか言い出す始末である。

流石にここまでやられれば誰でもキレる。

大膳もキレた。

それどころか先代様に頼まれた黒田藩すら危うい。

こうして大膳も逆襲に転ずるのである。

寛永九年一月に徳川二代将軍・秀忠が没すると、忠之は葬儀後に帰国。

かねてより大膳を処断するつもりであった忠之は、

倉八一派を排斥しようとしていた大膳に切腹を命じる。
 

これには剃髪し、人質を差し出したことでなんとか逃れた。

同年六月十五日、忠之の手の者が博多の町で一人の男を捕えた。

その男、とんでもない書状を持っていた。

何と黒田忠之に幕府に対して謀反の企てがあるという訴えをしたためた書状である。
 

実はこの男、大膳の手の者。

先日の件でもはや一刻の猶予もないと思った大膳は、

幕府への訴えという強硬策に出たのである。

この男は捕まったが、密書は二通あり、

もう一通は豊後幕府惣目付け竹中采女正(竹中半兵衛の甥)のもとへ届いてしまった。

 

驚いたのは竹中である。

黒田家と言えば関ヶ原の折に家康自ら手を取ってもらい、
親父に怒られた大功の家であるし、関ヶ原ではともに轡を並べた仲でもある。
とはいえことは公のことである。

 

早急に福岡へ向かうと、大膳の身柄を確保。

訴状は江戸に差し出した。
 

かくして忠之に出頭命令が下る。

先日も加藤家が改易されたばかり。

流石の忠之も震え上がった。

ことの次第に幕府も、

土井利勝、井伊直孝、酒井忠勝らフルメンバーの体制で取り調べを開始した。
評定は長引き、とうとう将軍・家光自ら、

忠之を城中に呼び寄せ謀反の有無を問いただした。

 

その結果、謀反の疑いをはらすことができた。

謀反の企てが虚言であるならば、何故大膳は虚言を訴え出たのか?

改めて大膳を呼び出し問いただせば、
大膳は主君に逆心ありと訴えたのは虚言であるが、

黒田家を滅亡の淵から救うには、

御公儀の力を借りるしかなかったと陳述し幕閣らの涙を誘った。

寛永十年三月十五日、将軍・家光の裁定が下った。

黒田の領地は没収。

しかし、父・長政の功績に対し改めて旧領を与える。

大膳は盛岡藩へお預け。

しかし四里四方お構いなしというどちらにも寛大な処置であった。
 

また件の倉八十太夫は黒田家追放となったのだった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 黒田忠之と対立、栗山利章

 

 

 

ごきげんよう!