黒田長政の家老である黒田美作一成は、幼名を玉松、後に三左衛門と呼ばれ、
晩年に美作と改め、隠居して睡鴎と号した。
彼は肥前島原の役の時に六十八歳であったが、正月十七日、福岡を出陣し島原に至った。
この時、松平伊豆守(信綱)は軍議をしようと彼を召したが、
美作は先に城下を打ち廻ってよくよく地勢を見終わってから、伊豆守の陣所へ行き、
「今日ここに至り、もし愚意を問われても当城の形勢を知らなければ、
何を申し上げることが出来るでしょうか。
所々を行って廻り見分仕ったにより、すぐには参上しませんでした。」
このように申すと、伊豆守も、
「さすが老功の者。」
と賞美した。
そして城へ乗り込む時期について問われると、こう申し上げた
「只今、城へと乗り込むのは然るべからず。
この城を力攻めにすれば、勿論即時に乗っ取ることは出来るでしょうが、
敵の弾薬も沢山あり、寄せ手に多くの死傷者が出るでしょう。
今はただ取り巻き兵糧攻めにして、弾薬を徒に尽きさせ、食も尽き、
疲弊した時に乗っ取る事こそ然るべきです。
これについて、もし敵を恐れて申しているのだと思われるかも知れません。
しかし私は若き時より、敵に向かって臆したことはありません。
現在、他に変は無く、孤立した一揆の孤城に対して、
御人数の死傷者が多いというのは宜しからざる、
そのためこのように申しているのです。」
これに伊豆守も諸大将も、一成の意見に同心したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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