天正20年(1592)6月、薩摩の国人・梅北国兼が、朝鮮の役に出征する途中、
不満を抱き肥後佐敷城を乗っ取るという事件が起きた。
いわゆる『梅北一揆』である。
この事件自体はすぐに鎮圧されたが、梅北の仲間に、
島津晴蓑入道歳久の家臣が多かったことから、
関白・秀吉は激怒し、島津義久に命じた。
「九州陣の時、歳久は無礼を働いたゆえ処罰するべき所を、
その方と義弘の赦免に伴い同様に許した。
しかし当人は京に挨拶にも来ない。
今回、歳久が朝鮮にいるならその身は助ける。
いないならば、歳久の首をはねよ!」
養子を九州攻めで失った歳久は、秀吉が自領を通る際、
矢を射るという『無礼』を働いており、
秀吉の歳久への印象は最悪だった。
中風を患い歩行も不自由な歳久が反乱を企てるはずもなく、
義久は、上使・細川幽斎へ必死の弁明を行ったが、歳久の孫の助命がやっとだった。
これを聞いた歳久は、せめて居城・宮之城で切腹しようとしたが、行く手を阻まれた。
仕方なく竜ヶ水という所でで追っ手に応戦、歳久はここで覚悟を決めたが、
中風でもはや脇差を握ることもできない。
「誰かある。早うわしの首を獲れ。」
原田甚次という侍がやむを得ず歳久を斬った瞬間、敵も味方も刀を投げ出し、
地に伏して声を上げ泣いた。
「幽斎どの、これでよろしいかッ!?」
義久は、歳久の遺体の懐から出てきた叛意はない旨の遺書と、辞世を投げ出した。
晴蓑めが たま(魂)のありかを 人問はば いざ白雲の 末も知られず
(刑死した歳久の魂はどこへ行ったと聞かれたら、
思い残すこと無く死んだので、
雲のかなたに消え去って、分からないと言って下さい。)
幽斎は、この句を添削した上で秀吉に披露した。
晴蓑めが たまのありかを 人問はば いざ白雲の 上と答へよ
(歳久の魂はどこへ行ったと聞かれたら、無実だったので天界へ昇ったと答えてくれ!)
京の一条戻橋にさらされた歳久の首は、
家老の島津忠長が盗み出し、浄福寺に葬ったと言われるが、
この事で忠長が罰を受けたという記録はない。
義久は、秀吉が死亡すると、さっそく歳久最期の地に、
菩提寺・心岳寺(現・平松神社)を建て、これを弔った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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