問註所統景☆ | げむおた街道をゆく

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大友氏の忠臣といえば、

衰退する本家を筑前から支えた立花道雪・高橋紹運らが有名だが、
筑後国にも大友義鑑の時代から大友家に仕えた国人領主・問註所氏があった。

筑後というところは昔からこれといって突出した大勢力がいない国で、

室町時代初期から、

大友氏が守護職を得て(途中、今川了俊や菊池氏に守護職が移った時期もあるが)、
代々大友氏の影響が強い地域ではあったが、

大友氏は守護代を置いて任せる程度の緩やかな支配で、
筑後十五城主と呼ばれる小勢力が点在していた。

そんな筑後国も戦国時代の荒波の中で小勢力たちは翻弄されていくことになる。
 

大内氏や毛利氏の筑前侵攻、立花鑑載・高橋鑑種の反乱、筑紫や秋月はしょっちゅう裏切る。
 

問註所氏は秋月領に近いこともあり、秋月の動きを大友に伝える監視役として働いた。
しかし大友氏が耳川の合戦で大敗、筑後国は竜造寺氏の台頭により風雲急を告げる。
 

大勢力の蒲池氏を始めとして筑後勢力のほとんどが龍造寺方につく中、

当主の問註所統景は本当によく頑張った。

一族で龍造寺側についた鑑景や、龍造寺方についた星野氏、
筑前からは秋月氏などが連合して何度も領内に攻め入るも、その度に撃退。

 

守るだけでなく星野氏の白石城を攻め取ったりもした。

そんな中、龍造寺隆信が蒲池鎮漣を誘殺。
蒲池一族を皆殺しにし、筑後勢力の多くが龍造寺に反感を持ち始める。
 

さらに龍造寺隆信が沖田畷で戦死。

そうなると今度は龍造寺を離れて島津方につく勢力が頻出。
筑後国内は龍造寺方・島津方・大友方(問註所氏と五条氏のみ)の3勢力に分かれていった。

そうする内に今度は島津軍が本格的に北進を開始。

島津方についた勢力どころか、
龍造寺本家も島津に味方して大友家を攻めることになったため、

筑後国内で問註所氏は孤立。
 

しかしそんな絶体絶命の状況でも、統景は孤軍奮闘。

島津本隊が筑紫広門の篭る肥前の勝尾城や、
高橋紹運の筑前岩屋城を辛くも陥落させ立花山城に攻め入る。

 

ここで豊臣本隊の九州上陸の報を受け、
島津軍は本国へ退却するが、

この間統景は長岩城に籠城して、島津方の攻勢から居城を守りきったのだった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 大友家臣団

 

 

 

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