大友宗麟は、熱心なキリシタン信者として有名だが、それは彼が晩年になってからの事。
確かに若い頃からキリスト教に興味津々で、教会に対しても面倒見がよかったが、
1575年以前までは、本人がいちばん熱中していたのは禅の教えであった。
臼杵に、禅寺(寿林寺)を造らせ、京の大徳寺から偉いお坊さんを招聘して、
次男の親家を、成長後はそこの住持にさせようと考えていた。
しかし…。
「国主の若い息子(次男)は、なんとしても仏僧になりたがらなかった。
彼は僧院で書物から学ぶどころか、武器をとり、撃剣、相撲、
その他、それに類した修錬に専念して、
もし国主が自分を無理やりに僧侶にするつもりなら、切腹して果てるか海で投身自殺する、
と言った。
国主は息子がどんなに恐るべき、かつ激しい性格か知っていたので、
彼にとって息子のことは、重荷であり憂慮の種であった。
そこで彼がこの件でフランシスコ・カブラル師に助言を求めた時に、
司祭は彼に、その息子が冷静になり、その激しく頑固な性格が克服されるためには、
殿下が彼をキリシタンにさせる以外の救済法とては思い浮かびませぬ、と説いた。
この忠告は国主には望ましいものに思われ、フランシスコ・カブラル師は、
その息子に理解力に応じて教えを授けた後、臼杵において洗礼を授けた。
そして彼にドン・セバスチアンの教名を与え、国主は受洗の際に列席した。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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