吉弘嘉兵衛尉統幸の先祖は大友の一族であり、代々先手の侍頭であった。
祖父も父も、みな吉弘嘉兵衛尉と名乗った。
祖父は日向にて討ち死にし、父は後に宗甚と号し、
彼は高橋紹運の兄であり、すなわち吉弘統幸は紹運の甥である。
立花左近将監統虎(宗茂)は紹運の子であるので、立花宗茂と吉弘統幸は父方のいとこである。
先年、豊臣秀吉によって大友義統が豊後を召し上げられた時、吉弘統幸も浪人したのだが、
黒田如水が彼を豊前に招き、重臣である井上九郎右衛門に預け置き、
しばらく井上の領地に逗留していた。
その後、立花宗茂の招きによって、筑後の柳川へ行き、
浪人の間の扶持として知行二千石を与えられ、
数年居住していたのである。
この時、大友義統の嫡男である義乗は、徳川家康の預りとなり、
江戸の牛込という所に居住していた。
このような中、石田三成の挙兵が起こると、これを聞いた吉弘統幸は世の中の流れを考え、
「今回の事態は家康公のご理運となる事必定であろう。
幸いにも義乗公は関東におられる。
これより関東に行って義乗公を盛り立て、大友の家の再興を果たそう。」
と思い、立花宗茂に暇を乞うた。
宗茂は吉弘の話を聞くと、
「その方の志、尤もな事である。」
と暇を遣わし、その上道中の路銀として黄金をいくらか与えた。
吉弘はこれに感じ入り、申し上げた。
「私は数年の間あなたに扶養して頂いたというのに、
その御恩を報ぜず、只今御暇を乞い申した事は、
不義の至であり、本意にも背くことであるというのに、
御暇を頂き、その上金子まで、このように多く下されました。
誠にこのお恵みは、忘れがたい事です。
これは我が先祖より伝わる刀でありますが、
今度上方において、私もどのように成り果てるかわかりません。
ですのでこれを、形見としてお受取り下さい。」
そう言って忠光の太刀を差し出すと、宗茂は涙を流して、
「そなたが義乗を盛りたてるため関東に参られることに、私も感じ入ったのだ。
私もその方のことを、左右の手のように、頼もしく思っていたのだが、
義によりては命をも惜しまれぬ事であるのだから、
ここに留めたいとは思うけれども、力及ばぬことである。
また、その方の家に伝わる太刀を形見に賜るのは、感悦なる事である。
ここにある私の脇差しも、
私が常に、身から外さず帯びているものであるが、
これを、私の形見として受け取って欲しい。」
そう言って腰にさした脇差しを抜いて吉弘に与えた。
吉弘はこれを受け取り、しばらくは顔も上げられず泣いていたが、
やがて暇乞し、関東に向けて出立した。
吉弘が大坂に到着すると、その時、丁度、
大友義統が差し置かれていた毛利氏の元から泉州堺に上がって来ていることを聞き、
急ぎ堺に行って義統と対面した。
義統は、
「いかに嘉兵衛尉、久しく相見なかったな。今度毛利輝元、増田長盛より承った事には、
秀頼公より本領である豊後を下され、その上当座の合力として、
具足百領、馬百頭、鑓百本、鉄砲三百挺、銀三千枚を賜り、
急ぎ豊後に下り、九州を鎮めよということである。
私のやることは決まった! お前も良い時にやって来た、我が伴をせよ!」
吉弘はこれを聞くと、こう申し上げた。
「いやいや、そんな事をすれば殿のお立場をいよいよ悪くし、
ただ御運を尽き果てさせてしまうでしょう。」
これには義統も、側に居た木部元琢、竹田津一卜も、これを聞いて興ざめた様子であった。
義統は、
「ならば、汝はどう思うのか?」
と聞くと、
「必ず、天下は内府(家康)の御手に入ることとなるでしょう。
此の度の乱は、石田治部少輔の天下を望む謀計より起こった事です。
逆謀に加担して、一旦利運が来たとしても、悪名は末代まで残り、浅ましいことです。
その上これは、御身も御名も共に失ってしまいます。
特に、義乗様は内府に属して、江戸に居られるのですから、
御子と共に、内府の味方をする事こそ然るべきと考えます。
これは大事のご分別です。
どうか、能くご思案し、御後悔の無いようにお謀りになってください。
私は義乗様を盛りたてるため、立花宗茂に暇を乞うて、関東に参ります。
殿も御暇を乞われるべきです!」
しかし義統は同心せず、吉弘は再三諌めたのだが承知無く、
義統は豊後に下ろうと、その翌朝大坂へ行き、
そこから船で傳法という所まで出た。
吉弘統幸は宿舎に帰ったが、そこで考えたことには、
『今、滅亡に極まった目の前の主君を捨てて、
世に出ることになるであろう関東の義乗様のもとに参るというのは、
不義の事である。
さて、もはや私の運命も尽き果てたようだ。
ならば今、義統様の供をして豊後へ下り、
本国の土に成ろうではないか。』
そう決心し、大坂から船に乗って傳法に追い付くと、義統は大変に喜んだ。
その後、上関で黒田如水の使者が来て、如水からの異見状を吉弘も見て、
色々と諫言したが、やはり同心してはもらえなかった。
豊後に下った後は、吉弘は宗像掃部と言い合わせ、快く討ち死にしようと決心したが、
黒田如水との決戦である石垣原の合戦に赴く時、大友義統の前に出てこう申し上げた。
「今回の合戦にたとえ打ち勝ったとしても、畢竟、殿のご理運にはならないでしょう。
私はこの度、討ち死にすると決心いたしましたので、一生のご対面は、
只今ばかりとお考えになってください。」
そう言うと、涙を流しながら立ち去った。
そしてかねてからの言葉に違わず、終に戦死を遂げた事こそ哀れであった。
吉弘統幸の旧恩を慕って馳集まった士卒も多かったが、彼らも一歩も引かずに討ち死にした。
吉弘のことは言うに及ばず、その家人まで、あわれ惜しき士共なりと、
敵も味方も感じないものは居なかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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