志賀親次は、十八歳であった☆ | げむおた街道をゆく

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島津義久の舎弟・兵庫頭義弘が、天正十四年(1586年)の冬、豊後朽網に在陣したため、

大友家の大身の将どもは大友家を背き義弘に次々と従った。
 

ただ義弘は近くの親次の岡の城には攻めあぐねていた。
それどころか志賀親次の手の者が義弘陣所に忍び入り、小屋などをたびたび焼き払った。
 

また天正十四年冬の初めから翌二月の末まで、親次が攻め滅ぼした城は十五に上った。

当時、志賀親次は、十八歳であった。

また肥後国坂足は豊後の幕下にありながら早々に薩摩勢に降っていたため、

志賀親次は天正十五年三月十八日に阿蘇表に出て坂足を攻めた。
 

このとき志賀勢は宮ノ寺に陣を張ったが、岡城の雑兵の奴ばらは釣鐘を壊し、

狛犬を焼き、社壇を破り、鳥獣を殺し、肉食をするなどの邪なる振る舞いをした。
 

さては軍に物の怪が取り付いたのではないかと人々はおそれた。
そんな折、薩摩勢の新納忠元、伊集院肥後守、入来院、祁答院らの四大将の軍が、

豊後日田から肥後国小国に到着し、この豊後勢の狼藉について地元の住人から聞き知った。
 

翌朝、薩摩勢の四大将は宮ノ寺の豊後勢に打ち掛かった。
豊後の先陣として、

中尾伊豆守、大塚典薬、朝倉伊予守、中尾駿河守、朝倉土佐守などが受けてたった。
 

しかし前夜に神前を穢し、その身も穢れに触れた奴ばらは、

眼前に霧が襲って全く物が見えなくなり、

草木を敵と思って斬りかかったり矢を放ったりした。
あたかも自ら首を刎ねてくれと言わんばかりであり、

雑兵かれこれ百五十人が枕を並べて討死した。
 

中尾伊豆守は軍兵に、

「このたび山谷鳴動し、煙雲が味方を襲ったのはただごとではない。
軍気をうかがって退くべきだ。」

と言って退却した。
 

そののち豊後勢はなんとか態勢を立て直し、豊後、薩摩双方とも軍を引いた。
 

また朝倉一玄は、

「このたびの阿蘇表への出兵は、親次の勇み足であり、血気の勇に似た振る舞いであった。
若気の至りとはいえ、親次には似合わぬことであった。」

と言ったそうだ。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 天正の楠木、志賀親次

 

 

 

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