志賀太郎親次は、大友の家臣であり、豊後の岡城を守っていた。
ある年、薩摩が豊後の諸塁を攻め、或いは下り、或いは陥り、
国中大いに恐れる所に、志賀親次は一人、少しも屈しなかった。
そんな親次に、ある人が言った。
「貴殿が自らの勇気を頼まれても、薩人は目に余るほどの大軍であり、
その鋒はありえないほどだ。
その身が死しても戦況に少しも影響を与えないだろう。
であれば何の為に戦うのか。
速やかに降伏すべきだ。」
そう諌めたところ、親次は威儀を正して、
「年来の知因であるなら、男夫の義をこそ勧めるべきであるのに、弱みの異見とは心得ず。
主君の禄を受けたる者、ただこの一身のみではない。
妻子もその御蔭で心安く養うことが出来、
今日に至るまで、凍え飢える憂いは無い。
無事の時は威を争い座を論じて、危難に臨んで忠を忘れ節を改めるのであれば、
それは人と呼ぶべきだろうか。
古より誰であっても死なぬ者は居ない。
しかし義は千載朽ちざるものだ。
私の息が絶えない間は、この城を敵の泥足に踏ませるものか。
ただ死して君恩を九泉の下に報ずるばかりである。」
諌めた者は、この言葉に感じ入り親次に与力した。
そして岡城の守兵はおよそ六百あまり。
薩人と戦うこと度々であった。
豊後の地は多く薩人のために掠められたが、親次は岡城を全うした。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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