長宗我部国親が、病の身を押して本山氏の浦戸城を落とした後のこと。
さる程に覚世(長宗我部国親)は、岡豊に帰りなさって、
種々の医療をされたが、針灸調剤の術も絶えて、
既に臨終に及んだので、弥三郎(長宗我部元親)を呼び、
「我は病で命が今に迫っている。
本山は怨敵の張本なので、報酬の志深いといえども、時至らずして過ぎ去ってしまった。
そうであるので今度彼が領内に入って一戦に打ち勝ち、三つの城を乗っ取ること、
生前の本望、死後の思い出である。
なので我が為には、本山を討つより外に供養なし。
我が死んだら、十七日の間は、世法に従って、汝が心に任せよう。
それが過ぎたら、喪服を脱いで甲冑に換えて、軍議に専念しろ。
この旨を堅く心得よ。」
と言って、永禄三年六月十五日、五十七歳で、遂に卒去しなさった。
逃れられない別れで悲しいけれども、そのままであるべきではないと、
岡豊の東北、千歳山謙序寺に葬った。
こうして元親は、十七日の作善、心の如く執り行い、悲涙が未だ乾かないといえど、
亡父の遺言に任せて、吉良退治の評議をなされた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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