戦国時代中盤、香宗我部家は、長宗我部家や安芸家によって圧迫を受けていた。
隠居していた香宗我部親秀は、家名を守る為に、
長宗我部家から継養子を迎えて連合体制を築こうと図ったが、
話は順調に進まなかった。
弟・秀通が頑なに拒んだのである。
秀通には後を継ぐべき男子もあり、長宗我部家を畏れて迎合するを、
武門の恥として反発した。
家名を守る為に執心した親秀は、弘治2年(1556年)に秀通を部下を使って暗殺。
こうして長宗我部国親の三男が香宗我部親泰として家督を継ぐ事になったのである。
親泰は秀通の遺児で歳の近い香宗我部泰吉を重用した。
親泰の妻は泰吉の妹であるから尚更かも知れない。
ちなみに泰吉が2歳年長。
泰吉は親泰に仕える時点で姓を中山田に変えた。
香宗我部家当主はあくまでも親泰であるという意思表示である。
香宗我部改め中山田泰吉は本当に優秀な人物であったらしい。
長宗我部家の外交官として飛び回る親泰の留守を、
それはもう完璧なほどに守り、執務も代行していた。
ところが泰吉には悩みの種があった。
親泰、
「俺に何かあったら次は泰吉。」
と親泰が公言して、はばからなかった事である。
長兄・長宗我部元親を前にしても公言する。
息子にも叔父さんに習えと言い聞かせる。
と、親泰の義兄愛がとんでもなかったのである。
確かに優秀な人材であり元々の香宗我部家の人間だが、
長宗我部本家の血の結束からは外れた存在。
人物、能力に惚れ込むあまりに、血縁の重要さが親泰から吹っ飛んでしまったのである。
このあたり、長兄とどこか似通っている。
結果として親泰死後に次男・貞親が後を継ぎ、
泰吉は重臣として香宗我部家に仕え続けた。
関ヶ原後は香宗我部家の家名を守る為に奔走。
香宗我部の家名は守れたが残念ながら貞親は土佐を退去した。
泰吉一族は土佐に残り山内家に仕えた。
今も中山田家は続いています。
清和源氏の流れをくむ香宗我部と名乗る事もなく。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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