義統様の科ではない☆ | げむおた街道をゆく

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大友家累代の佳名を失ったのは、全くもって義統様の科ではない。

彼の父上である宗麟様は仕合良く、九州の内六ヶ国を旗本に属し、

豊後の府内は、大内氏の山口と共に、
西国の都はどちらかと言われるほど繁栄し、御威光浅からぬものであった。

ところが老年に成って切支丹宗になられ、

分国残らずかの宗門に引き入れ、神社仏閣を破却し、
寺社領を横領し、仏の画像にて鼻をかみ、あまつさえ尻を拭き、

石仏・木仏を雪隠の踏み石とするのを、
彼は手柄とし、氏神先祖の菩提所を崩し、仏壇、社壇の材木で雪隠を作り、

先祖の位牌も打ち刻み、
牛や鹿を焼いて食い、悪逆の至り、語り尽くせぬほどである。

まして出陣の時も、吉日・吉方という事を選ばず、

その出発に際し、どういう意味があるのか、
彼が崩した氏神の古宮の跡に籤入りを遣わすような所業をした。

そのようであるから、向かう所ごとに負け、

ようやく本領の豊後だけは残ったが、これも島津に蹴散らされ、
府内の居城さえ守ることが出来ず、豊前の妙間嶽まで逃げ籠もり、

府内の城も焼き払われ、一名危うい時に、
太閤様がご人数を出されたため島津は撤退し、

その跡に入れ替わりに入って高名顔をしていた。
 

そして猶も悪行強く、大友の家が滅ぶべき時極まったのである。

高麗にて、唐人と戦わず、小西摂津守を捨て、聞き逃げをし、

黒田甲斐守(長政)の先手伝の城に、
ほうほうの体で逃げてきたのを、

甲斐守先手、小河伝右衛門、勇士なれば城を堅固に保ち、
小西・大友両家の軍勢を引き受け、様々に働いたため、ようやく太息をつき、

それより小河は名を上げ、
大友は日本一の臆病者と御接感情が出され、豊後国を召し上げられ、

その家臣であった我も人も、
その時から乞食となり、いまこのように成ってしまったが、

これも全くもって義統様の科ではない。
 

また前世の因果とも言いがたい。

何もかも、悪事の根源は、皆これ切支丹宗のせいなのだ。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 不明懦弱、大友義統

 

 

 

ごきげんよう!