大友家累代の佳名を失ったのは、全くもって義統様の科ではない。
彼の父上である宗麟様は仕合良く、九州の内六ヶ国を旗本に属し、
豊後の府内は、大内氏の山口と共に、
西国の都はどちらかと言われるほど繁栄し、御威光浅からぬものであった。
ところが老年に成って切支丹宗になられ、
分国残らずかの宗門に引き入れ、神社仏閣を破却し、
寺社領を横領し、仏の画像にて鼻をかみ、あまつさえ尻を拭き、
石仏・木仏を雪隠の踏み石とするのを、
彼は手柄とし、氏神先祖の菩提所を崩し、仏壇、社壇の材木で雪隠を作り、
先祖の位牌も打ち刻み、
牛や鹿を焼いて食い、悪逆の至り、語り尽くせぬほどである。
まして出陣の時も、吉日・吉方という事を選ばず、
その出発に際し、どういう意味があるのか、
彼が崩した氏神の古宮の跡に籤入りを遣わすような所業をした。
そのようであるから、向かう所ごとに負け、
ようやく本領の豊後だけは残ったが、これも島津に蹴散らされ、
府内の居城さえ守ることが出来ず、豊前の妙間嶽まで逃げ籠もり、
府内の城も焼き払われ、一名危うい時に、
太閤様がご人数を出されたため島津は撤退し、
その跡に入れ替わりに入って高名顔をしていた。
そして猶も悪行強く、大友の家が滅ぶべき時極まったのである。
高麗にて、唐人と戦わず、小西摂津守を捨て、聞き逃げをし、
黒田甲斐守(長政)の先手伝の城に、
ほうほうの体で逃げてきたのを、
甲斐守先手、小河伝右衛門、勇士なれば城を堅固に保ち、
小西・大友両家の軍勢を引き受け、様々に働いたため、ようやく太息をつき、
それより小河は名を上げ、
大友は日本一の臆病者と御接感情が出され、豊後国を召し上げられ、
その家臣であった我も人も、
その時から乞食となり、いまこのように成ってしまったが、
これも全くもって義統様の科ではない。
また前世の因果とも言いがたい。
何もかも、悪事の根源は、皆これ切支丹宗のせいなのだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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