天正十年には、東、北の諸国は概ね静謐となり、織田信長公は在洛されていた。
戸川秀安はその頃病気を患っており、
東国が治まった事で、関東草津の温泉に、療養のため赴いた。
そのような所に、秀吉公が備中高松城を水攻めにされ、宇喜多家より危急の通告があり、
帰ろうとしている所に、信長公父子が御不慮の横死(本能寺の変)に及び、諸国一統に騒動し、
東海北陸のあたりは殊に全く通行すら出来かねる有様で、
秀安も心ならずも草津に、四月から八月まで逗留し、
八月に上方に登って秀吉公に拝謁した。
その後も大坂に詰めていたという。
しかしながら彼は病気のために、年々御陣にも出られないことが多くなった。
天正十四、五年頃に、宇喜多秀家公の重臣、四、五輩が受領を仰せ付けられ、
秀安も叙任し肥後守となった。
暫くあって病気を申し立て、受領を嫡子助七郎達安に譲り、
自身は入道して友村と号し、児島常山の麓に引き籠もり、
茶湯、連歌、並びに文章を楽しんだ。
日々日蓮宗を崇み、病が進んだ後は仏道の外、他事無かった。
備前の宇喜多家家臣で古老の面々は、残らず日蓮宗を尊崇していた。
慶長二年八月六日、秀安は死去した。
これは嫡子である肥後守達安が高麗陣のため留守をしている間の事であった。
常山に葬られた。
その場所には今も、石塔がある。
法名自任斎坊授友林と号した。
惜しいかな、彼には生涯の行状記が無く、その悉くを知ることは出来ず、
僅かに十のうち一つを、ここに挙げるのみである。
秀安の扶禄は二万五千石、外に預かりとして五十人組、凡そ合わせて六万石、
人数三千の先手備えにて、宇喜多直家第一の重臣であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!