大坂夏の陣に於いて、石川主殿(忠総)の部隊が回収した名作の吉光の刀を、
京都において、権現様(徳川家康)に献上した所、殊の外の御機嫌にて、
「この刀は秀頼より明石掃部(全登)に授けられたものである。
これを持った者を討ち取った時、どのような様子であったのか。」
とお尋ねに成ったため、
この吉光の刀を取ってきた権太夫という者が急ぎ京都に召された。
しかし御問について、「(明石掃部という人物は)見知り申さず候。」
との事であったので、その通りに申し上げた。
その後、五、七年も過ぎた頃、台徳院様(徳川秀忠)の御咄に、
「大坂で回収された吉光の刀は、明石掃部が所持していたものであった。
その後、明石掃部の行方は解らぬままであり、である以上、
その時討ち果たされた者の中に有ったと考えるべきであるのだろうが、
あの刀を回収した主殿頭の者共は三河筋の者達で、
上方の侍を見知らぬ故に、惣首数の内に押し込めてしまったのだろう。」
との上意であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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