関ヶ原の戦いの功として石見津和野三万石を賜った坂崎出羽守直盛は、
鉄砲の普及で、もはや時代遅れの山城でしかなかった津和野城を大改築するため、
家老の浮田織部を奉行とした。
しかし家中には築城に長けた者がおらず、
かねてより懇意であった正楽寺の恵法に相談した。
恵法は若い頃は井上左近時盛という武士で、本願寺光佐に従って織田信長と戦い、
その和議がなったのち剃髪して恵法と号し諸国を遍歴し、
正楽寺三世教念の弟子となった顔の広い人物だった。
さっそく恵法は紀州に赴き、根来坊、阿林坊、南湖坊の三人を連れ帰り、
出羽守は住居を与えるなど篤く遇し、築城を任せた。
彼らは出羽守の期待通りの働きをし見事に城を完成させるが、
城の秘密を守るため三人を殺し、霊魂のたたりを恐れ、
城が見えない畑迫村中原に葬ったという。
同地には今も三塔の宝筐印塔が残っている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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