島原の乱の時、総攻撃直前に到着した水野勝成麾下の部隊ではあったが、
陣の後ろに着陣した際、
その陣中では周りに迷惑がかかるほど、麾下の兵達が五月蠅かった。
前の方の陣にいた小笠原の家中からも、
「日向守殿って、今も良将として評判が良いけど、
あの陣の騒々しさは感心できんな。
夜討ちされたら、あんな連中、兵としては使えなくて駄目じゃないか。」
と、ボロクソに言われてたそうな。
その時、島原の乱に来ていた宮本武蔵は、
この話を聞き、
「俺は、かつて日向守殿の家中だった事もあるし、
あのお方の軍立はよく知ってるが、
あのお方は、凡人の考えなどでは推し量れない大将だ。
各々方の評判で語れる様な日向守殿ではないよ。」
と語ったそうな。
で、実際はと言うと、総攻撃になった際、水野勝成の部隊(実際の指揮は勝俊)は、
最後列に居たのに、いつの間にか有馬康純と本丸の一番乗りを争ってたと言う。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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