我の外孫なれば、我が子に准ずべし☆ | げむおた街道をゆく

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慶長8年、神君(家康)は、池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継(このとき5歳)を伏見に連れていき拝謝した。
 

神君は、
「この子は我の外孫なれば、我が子に准ずべし。」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ、
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが、
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため、
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは、
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政が、
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
備前は大坂に近いので、もしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
大坂で功を立てたいので、自分を備前に封じて欲しい。」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。

 

神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば、
その力をもってして大坂の敵になるだろう。

 

輝政もまたその微意を察し、大坂のことを己の任としたのだ。

これにより康政は神君に不満を持った。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 雄々しく逞しく、池田輝政

 

 

 

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