関ヶ原の戦いの後は、功名がある浪人が多くいるようになった。
池田輝政公は播州へ御入国された後、
"天下に功名を顕す者"
と聞けば、禄の多少を選ばず、
その人相応に召し抱えられていたので、
我も我もと浪人が御当家を望んで来るようになった。
浪人の取次は若原右京に仰せ付けられていたので、
表向きは若原が勝手に奉公構の浪人などにも、堪忍料を遣わしたことになっているが、
実は輝政公の御意向からしたことであるという。
輝政公が御逝去された後、御葬儀の場で大勢の浪人たちが、
「今世に希なる名将と別れたことは身の不幸である。最早世に望みなし。」
と御霊柩を拝し、御儀式が終わると姫路城下から離散した。
このときの浪人の家が因幡(鳥取池田家)には多くあるが、
これは忠継公忠雄公光仲公の御代に、改めて召し出されたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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