鳥取平野は千代川の氾濫が度々あり、また農業用水の確保が難しく、
おおくが田畑に適さない荒地であり、これにより鳥取の住民は、多くが貧しかった。
因幡鹿野城主であった亀井茲矩は、これを深く憂いていた。
やがて関ヶ原で東軍についたことにより、三万八千石に加増されると、
この長年の懸案を一挙に解決させようと動いた。
用水路の造成による、新田開発である。
茲矩は馬で現地を視察すると、ついてきた役人にこう言った。
「わしの馬の足跡に沿って、水路を作れ!」
このように1600年(慶長5年)から7年の歳月をかけ、
延長16キロメートルにも及ぶ、「大井手用水路」が完成した。
この用水路には、水量を調節する多くの「樋」が造られ、樋守が置かれた。
そして、水田の大きさによって支流の水路の幅や深さを決めることにより、
効率の良い分水が可能となった。
水路の完成により、それまでの荒地に新田、新畑が次々と開墾され、
千代川の西側では、当時だけで1,200ヘクタールもの新たな田畑が作られた。
この用水路は、鳥取平野の人々に恩恵を与え続けた。
地元の人たちはこの水路を、
『亀井さんのおおいで』
と呼び、亀井茲矩への感謝を、今も忘れないのだと言う。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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