第二次月山富田城の戦いで、尼子義久は毛利に降伏し開城。
そして、その身は毛利の本拠・安芸へと送られた。
義久の御台所が、輿の簾をかき挙げて尋ねた。
「ここは何国か。」
従う人々は申し上げた。
「ここは以前、当方の御分国であった備後国・三好の里であります。」
北の方はこれを聞くと、硯を乞い、筆を染めて狂歌を一首詠まれた。
『行末は 江の川霧関留て 三好野の道や開けん』
そう詠むと、玉のように散る涙を袂に受け、伏せ転んで座された。
これを見た伊予守義久入道瑞閑は、大いに怒り、
「されば弓箭に携わり甲冑を帯びる武士は、盛者必衰、安危興亡の身なれば、
それは吾一人に限らない!
況や阿修羅王であっても帝釈に討ち負け蓮根の穴に身を隠し。
天人も五衰の日に逢うて歓喜苑に呻くという。
おおよそ武士の道とは、身を捨て名を惜しむというものである。
私が今、このような憂き目に逢うのも、
妻や子供の故なるぞ!」
そう、涙に咽んで筆を取り、
『三好川 霧関込る瀬々に来て 世を渡らんと名をば流しつ』
と詠まれた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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