尼子氏は、もともと出雲に土着していた国人ではなく、
近江京極氏の一族で、
京極高秀の子・高久が、犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)を領して以来、
尼子氏を名乗るようになった。
明徳三年(1392)、高久の子・刑部少輔持久は、出雲守護代に任じられて、
月山富田城(島根県安来市)に入り、ここに出雲尼子氏が起こる。
その後、持久の孫・経久が、紆余曲折を経ながらも勢力を拡大し、
尼子氏は山陰の一大勢力となっていった。
さて、経久の二男・国久とその子・誠久、豊久、敬久らは、
月山富田城の北麓新宮谷に居館を構えたことから新宮党と呼ばれていた、
尼子氏の勢力拡大は彼ら新宮党の活躍に負うところが多く、
特に軍事面では尼子氏の中核をなしていたと言っても過言ではない。
ちなみに経久の嫡男・政久が、永正十五年(1518)に戦死していたため、
経久は天文六年(1537)に、孫の晴久に家督を譲っており、
晴久の叔父である国久は大きな発言力を持っていた。
しかし天文二十三年の今日十一月一日、
晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、
ことごとく殺害してしまった。
その際、誠久の五男・孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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