天文9年(1540)、近年、元就朝臣(毛利元就)には、
尼子民部大輔晴久に様々憤る事があると、
大内義隆と陶入道道麒(興房)は聞き及び、棹させば流されると喜んで、
「大内の幕下に属されれば、これからは水魚の思いをなし申さん。」
と厚く礼和を言って申し越された。
元就朝臣は、いかが思いなされたのか、やがて了承し、
芸州にいた尼子一味の侍どもの城を、一時攻めに5ヶ所乗り崩し、
晴久と手切れの色を立てなさる。
これにより晴久は吉田へ発向の旨を評議し、祖父経久(尼子経久)へも、
聞かせ申してこその事と思い、
しかじかの由を申された。
これに経久は、
「吉田出張の儀は無益である。
まず石備両国を従えて国人どもの人質を取り堅め、
深固の利をもっぱらとして、その後に吉田へも出張するべきだ。」
と理を尽くして申された。
しかし晴久は、経久は老耄なされたので、
「御意見至理に存じ候。」
と謹んで申されながらも、内心では、
「臆したる仰せかな。」
と思い、ひたすら吉田へ出張の用意をするのみであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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