大内義隆公は、ことのほか芸能や美しいものを愛し、講西寺に立ち寄った際に、
その境内で演奏をしていた流浪の芸人の笛吹きを召し抱え、
さらには、その者の子供が、美童であり鼓に秀でていたため小姓として、鷹羽と名乗らせた。
陶隆房殿が兵を挙げると、義隆公は吉見(正頼)殿を頼って長門の大寧寺まで、
落ち延びたが、そこで塀に囲まれ自害することとなった。
鷹羽も義隆公に従っていたので同地で殉死するか戦って死んだと思われたが、
ある日、山口の地でこれを見かけた者があった。
「義隆公のお伴をしたのではなかったのか。」
と問うと、
「我が死んだごときでは、ご主君への恩は返せぬ。
かと言って戦う力もないので、
私のような者でも、ご主君の敵を討つことができる機会を探しているのです。」
と語った。
それを聞いた相手は、他の者に、
「命を惜しんであのような嘘をつくとは、生まれが賤しい者は心情も賤しい。」
と語り、それを聞いた者たちも鷹羽を臆病者・恩知らずと罵り嘲った。
半年後、陶殿を毒殺せんという企みが発覚し、その下手人として、
台所に紛れ込んでいた鷹羽が捕えられた。
陶殿は豪気なおかただったので、主君のために尽くそうとした鷹羽に感心し、
右腕の肘から先を切り落とすだけで、鷹羽の命を許した。
鷹羽が臆病者であるという悪評はおさまったが、
片腕となった鷹羽は得意の鼓で稼ぐこともできず、乞食などして糊口を凌いでいたので、
口が悪い人は、
「身の程知らずのことを企んだ罰である。元の身分に戻っただけのことよ。」
と笑いあった。
そうこうするうちに、鷹羽の姿は山口から消え、誰もそのことを忘れてしまった。
弘治元年、陶殿は大軍を率いて安芸厳島に上陸したが、そこで毛利軍に敗れ自害なされた。
厳島から引き揚げの際、毛利軍は自軍の中に見慣れぬ怪しげ者が紛れ込んでいるのを見つけ、
大内方の兵が毛利軍の振りをして逃げ延びようとしているのだと思い、これを殺した。
殺された者は右腕が無く、素性を問われて、
「義隆公の恩に預かった鷹羽という者である。」
とだけ名乗り、後は経文を唱えるだけで何も語らなかったという。
これを伝え聞いた講西寺の和尚は、鷹羽の心根を哀れに思い、
小さな墓を建て祭ったということである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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