大内とは、目出度名字今知れり☆ | げむおた街道をゆく

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大内義隆は、防州山口鴻の嶺の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに磨き立てて、

夫人を移し参らせ、築山の御前と名付けて大切に扱った。

けれども姫君は都を恋しく思って事の折に触れては口に出すので、
義隆は、それならば当所に都を移そう、と一条より九条までの条里を割り、
四ヶ国の大身小身の屋形を甍を並べて造った。

京、堺、博多の商人は軒を争って建て続け、領国の諸侍は朝暮に出仕を遂げ、
囲繞渇仰は記すに遑なく、これに加えて諸門跡を始め公卿殿上人、
または五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌管弦の遊び、
またある時は詩連句の会を明け暮れの業とし、その他、京都、南都よりも、
猿楽の名人を呼び下して能芸を尽くさせ、さては茶湯を興行し、

和漢の珍器を集めて弄んでいるうちに、

国々より諸商人が山口へ到来して日毎に京町が立った。

そのため防州は時ならぬ春が来て花の都と唱えた。

京都はむしろ廃れ果てて及ぶはずもなかった。

 

故に、山口一条の辻に何者かが、九重の天はここにありとして、
「大内とは目出度名字今知れり裏の字略せし大内裏とは」

と表現したほどであった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 大内文化の爛熟、大内義隆

 

 

 

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