織田信雄が、京で猿楽を催した時、小早川秀秋ら諸大名が見物に行った。
この時、秀秋は十四、五歳であったが、秀吉の猶子だったために、
その従士までが、その威に誇り、
「金吾の御出ましだ!」
とすぐに戸口に入っていったところ、
側にいた加藤清正の家臣十人ばかりが、
「何が金吾だ。」
と過言した。
怒った秀秋の近習は棒を取って三人まで打ち叩いた。
これがきっかけで喧嘩となり、
秀秋の帰宅後、両家の士が伏見より馳せ来たり、互いに武装して警固した。
秀秋の老臣は、
「打たれた三人は清正が成敗するでしょう。
ならばこちらの者も切腹させなければなりません。
先延ばしにして自害でもされたら、それこそ恥辱ですぞ。」
と具申した。
「清正が何と言おうと元々彼の無礼により起こったことだ。
我が家来が死ぬ必要はないだろう。
お前たちの心配には及ばない。」
秀秋はそのように言ったが、老臣たちは清正のような剛勇の士ならば、
必ず大事になると恐れ慄いた。
また、打擲した者もすでに沐浴して礼服を身に着け、清正の使者が来れば、
すぐに自決しようと覚悟して待っていた。
間もなく清正自身がやって来た。
秀秋はきっと争論になると思っていたが、思いの外、清正は温和な態度で、
「今日の家人の失礼を只今承り、遅参致しました。
御近習の人々が、
それがしの家人の無礼をもって斬り殺すべきところを、
怒りをなだめられて打擲程度に留めて下さったことは喜悦に堪えません。
それがしも彼らを成敗しようと思いましたが、
それでは御近習も閉門になってしまうのではと思い、本国に帰して閉門を申しつけました。
どうぞ御近習を罰するようなことはなさらないで下さい。」
と、秀秋に詫びた。
秀秋は清正の思いもよらない挨拶に心も打ち解けて会釈すると、清正も大いに喜び、
「三里の道のりを急いで参りましたので喉が渇きました。御酒を一盃頂けませんか。」
と言うので酒が用意された。
また、清正は、「打擲した人々も呼んで下さい。」と言って、
その席に招き、酒を酌み興を催して帰っていった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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