黒田如水☆ | げむおた街道をゆく

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黒田如水は、元来、吉川元春、その嫡子・元長に厚意があった。
その吉川家では、元春が天正15年(1587)に死去し、元長もその翌年に卒した。
家老たちは、元春の次男である元氏を立てようと協議していたが、

この時、黒田如水が考えたことには、

『元氏は病弱であり、現在の戦国の時代に家を継ぐべき器量ではない。

元氏の弟である広家は、
その家督となるべき器量がある。

これに家を継がせるのが然るべきである。』

そして広家の家臣・香川又左衛門と相談し、

豊臣秀吉へと言上して、終に広家は吉川毛の家督を継承した。

このころ広家の年齢は二十歳より下であった。

このように、吉川家が黒田家の恩意を被ったのは、

関ヶ原で東軍への内通の頼みとしただけでなく、
以上のような由緒もあったのである。

吉川広家は寛永2年(1625)9月21日に死去したが、この時、以下のように遺言した。

『私は如水・長政と多年約束をし、一生の間、互いに裏切ったことはなかった。

私の没後、子孫に至るまで親懇の筋目を忘れないようにと思う。
紫野大徳寺龍光院は、如水・長政の菩提寺である。

両公の塔の傍に、我が遺骨を葬り、収めるように。』

そして遺言のとおりに葬られ、石塔を建て、金光院中厳如兼と称した。
それ以後、代々の吉川家は黒田家に対し、心の入った篤心であること、

その先祖の言葉を虚しくしていない、と言うべきであろう。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 関ケ原南宮山、吉川広家

 

 

 

ごきげんよう!