天正11年(1583)12月、毛利氏は賤ヶ岳の合戦に勝ち、
名実ともに覇者となった羽柴秀吉に対し、
国境画定の作業を進めていた。
しかし毛利氏の実効支配が進んでいた美作地域の、
羽柴方への割譲に、家中から強い不満が噴出し、毛利家当主・輝元も、
この家中世論を無視できず、国境交渉の停滞も起こりかねない状況となった。
これに危機感を抱いた毛利の交渉担当者・安国寺恵瓊と林就長は、
連署の書状を送り、輝元に決断を迫る。
その書状には、このようにあった。
『現在、毛利家中の上下の心中を見れば、去年以来の数度の戦闘の事を忘れ去って、
今では今回の国境策定は理由のないものだと考え、皆がのぼせ上がっております。
これはある意味仕方が無いのかも知れません。
ですが思い出してください。
前に鳥取城を攻められた時、北口(山陰方面)の衆は、その救援すら出来ませんでした。
また去年、南面(山陽方面)の冠山城、宮路山城が攻め落とされ、
高松城が二重三重に取り巻かれました。
我々はそうなってからようやく、軍勢の集結をして出陣したのではありませんか?
その状況は今だって来年だって変わりません。
上方の軍勢は10日や15日の間に出陣するというのに、
この芸州では、たとえ御三殿様(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)が、
既に途中まで出立したとしても、
軍勢が集結するまで50日。
少なくとも30日以内ということはありえません。
このようでは南北の入口の一つすら守ることは出来ません。
これらは児島、松山、高田などの割譲について、
今も毛利家中の意見があまりに無分別なので書いているのです。
その事は解っていただけると思いますが、驚かれることもあるでしょう。
御三殿様、そして福原貞俊、元俊殿によりご内談なされるのは、恐れながら今この時です。
正月も何も関係ありません!
かつて大内家が崩壊するとき、日頼様(元就)は正月の儀式をとりやめられ、
弓矢を取ってご出陣成されました。
逆に尼子経久は毛利に攻めいった時も正月の儀式をし、
恐れながらこれにより我々は神風を得ました。
こう見れば正月の儀式など、目出度いことではありません。
大内義隆がどうなったか、よくご存知でしょう。
山名、赤松、土岐、細川、朝倉といった人々は、皆大大名だったのに、
今は跡形も無くなりました。
我々の直ぐ近くでは、名家である河野殿に、長宗我部が戦うごとに勝利を収めています。
九州ではあの大友殿が、百姓のような者である龍造寺に追い詰められています。
また、現在の天下の形勢をみるに、甲斐武田殿、また直近の柴田滝川、
彼らは自分たちの都合を主張し、
そのため即座に敗亡しました。
われら芸州は未だ6,7ヶ国を保っております。
それらの統治は安定しており、長久のものとなるでしょう。
これは鉢開きのご正慶というべきです。
小僧のごとき私(恵瓊)が、このように申し上げるのは、口幅ったいことではありますが、
今日、京都五畿内の事は言うに及ばず、日本の半分ほどを見回している私の目は、
世の中を見ていない連中のそれとは少々違います。
そして芸州の、殿のお側の人々は慢心していて、世の中が見えていません。
今の世の中というのは、男に華麗な衣装も言葉遣いも必要ありません。
どんな分限者であっても、駆け馬一疋で公の用を成すことが出来ます。
しかし今の殿の周りでは華麗な分限者ばかりを召し連れ、
そうでない人々を排除しているように見えます。
仏の前で説教するようなものではありますが、
今の公私のご分別は、間違っているように見えるのです。
繰り言ではありますが、あえて申し上げました。』
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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