天正10年(1582)6月、備中高松城を水攻めにした秀吉軍は、
高松城主・清水宗治の切腹をもって、包囲を解くことになった。
宗治の兄は病弱で、弟に家督を譲り、出家して月清と名乗っていたが、
その話を聞きつけて高松城にやって来た。
「弟を自害させて、わしが生き残っても仕方ない。
三木城の別所長治殿も、弟がともに死んだそうな。
ここは、わしも一緒に腹を切ろう。」
宗治は、兄の申し出を断った。
「私は無念の事あって切腹するのではない。
城主として、兵たちの命と引き換えに腹を切るのだ。
兄者が死んでも何もならん。」
「ならば言わせてもらうがの、実は、わしは病弱でも何でもないわ。」
「?!兄者、何を・・・。」
「まあ、聞け。
わしは長男として家を継ぐべき身だったが、どうも乱世が肌に合わず、
弟のお前の方が器量に勝ると見たので、父上に頼んで家督を譲ったのじゃ。
ところが、それは裏目に出て、今やお前は、このような苦難に会うことになった。
もし普通に家督を継いでおれば、自害すべきは、わしなのだよ。
それを思えば、お前一人に腹を切らせるなど、どうして出来ようか・・・。」
この言葉に宗治も納得し、兄弟二人で腹を切ることになった。
「それがし、ひとさし舞うゆえ、兄者は謡をお頼み申す。」
誓願寺の曲を舞い秀吉軍から喝采を浴びると、兄弟は辞世の句を残し堂々と腹を切った。
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して (宗治)
世の中に 惜まるる時 散りてこそ 花も花なれ 色も色なれ (月清)
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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