天正7年(1579)9月、
雲林院式部大輔を主将とする三千が篭る丹波鬼ヶ嶽城を攻めていた明智光秀のもとに、
細川忠興が手勢を率いて駆けつけた。
光秀は、婿の加勢を喜んだ。
「では忠興殿、大手門(表口)を攻め候え!」
「手柄の機会を回していただけるか、かたじけない。」
だが、光秀の命に従わない者もいた。
「ふっ、馬鹿正直に大手から攻めていては、いつ落とせるか分からぬわ。」
細川家臣の古田左助は、城の裏山から搦手門(裏口)を打ち破って攻める事を企て、
山の間道へ押し入った。
左助は途中、城方の物見と遭遇し、一騎討ちの末これを下したり、
木の根、岩の角に取り付いたりしながら、
やっとの思いで城の裏山によじ登る事に成功すると、一息に坂を駆け下り、
搦手をこじ開けて大音声を発した。
「古田左助、一番乗りして敵を討ち取ったるぞ!」
「ちッ! 左助に出し抜かれたか!」
これを見た忠興が発奮し、相手をしていた騎馬武者を突き伏せ首を取ってみせると、
それが合図としたように、
全軍一同に城へ攻めかかった結果、城主の雲林院こそ逃がしたものの、
城を落として二百余を討ち取り、
城方の救援に駆けつけた、名だたる赤井悪右衛門直正を撃退する大戦果を上げた。
褒美として五百石を与えられた左助は、
その後も戦功を重ねて信長の直参に取り立てられて織部正を名乗り、
千利休に弟子入りして茶道の達人となった。
すなわち、古田織部である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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