中村一氏には、六人の家老があり、その六人とも、三千石の扶持を与えられていた。
そのうちの一人に、渡辺勘兵衛がいた。
小田原の陣のあと、関東に転封された徳川家康に代わり、駿河は一氏に与えられた。
このとき一氏は、六人の家老を平等に六千石に加増したが、
勘兵衛は、それに猛烈に噛み付いた。
「私の小田原陣の時の働きは、秀吉公から直々に、一万石相当のものであると言われました!
それが私ほど働いてもいない、他の五人と同じとは、納得できませぬ!」
と、憤りのあまり、そのまま中村家を出奔、高野山に登ってしまったそうだ。
その後勘兵衛は、増田長盛に仕える。
そして関ヶ原の時、勘兵衛は増田家の居城・郡山城を預かっていた。
この時、郡山の国人や地侍達が、
「増田殿より銀子を頂けなければ、城の防衛に協力しない。」
と言ってきた。
留守居の者たちは皆、彼らの望み通りに銀子を与えるべきだといったが、
勘兵衛一人が、これに反対した。
「殿がお留守であり、殿の仰せ付けのないままに城内の銀子を取り出すことは出来ませぬ。
それにこのような時に汚い欲を出すような者共、協力しないというならかえって好都合。
そのような不義の連中はいり申さぬ!」
留守居の者達も、これに同意したとの事。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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