秀吉の九州征伐において、軍監として九州に赴いた仙石秀久が、
戸次川の戦いで島津軍に大敗し、秀久が軍監を解任、改易されたこと、
これは有名であるが、実は久秀の後任の軍監も、おなじ目にあっている。
羽柴四天王の一人、尾藤知宣である。
豊臣軍による高城攻略の最中、宮部継潤の守る根白坂砦に島津軍が夜討を仕掛けたとき、
羽柴秀長らは援軍を出すことを主張したが、軍監の尾藤はこれに慎重論を唱えた。
「仙石の時のように、これが罠であったらどうするのか。」
秀長もそれを了承したが、秀長麾下の藤堂高虎は独断で救援に出撃、
これにより島津軍は、大損害を受け撤退した。
撤退の情報が入っても、尾藤は慎重を旨とし追撃を控えさせた。
この報告を受けた秀吉は激怒。
すぐさま尾藤を軍監から解任、改易させた。
九州征伐の軍監は、二代続けて改易されたのだ。
さて3年後、小田原の陣が起こる。
仙石秀久は、早速甲冑に身を固め、諸侯に先駆け一番に秀吉のもとに参陣した。
秀吉はこれに大いに感じ入り、彼に山中城攻めを命じた。
秀久の帰参はかなったのだ。
ところが尾藤の方は、小田原陣が終わった後、剃髪して、下総の古河にいた秀吉の前に、
許しを乞いに現れた。
秀吉は、「尾藤」と声をかけ、
さらに自分の馬を引き出させ尾藤にそれを乗らせ、
これを見物するなどをした。尾藤は秀吉のこの扱いに大いに喜んだ。
が、下野において突然、
「尾藤を成敗せよ。」
と、命を下した。
尾藤知宣は耳鼻を削がれ、さらに手足を斬り落とされた上で首を撥ねられるという、
残忍な殺され方をしたのだと伝わる。
仙石も尾藤も、同じく秀吉草創の頃からの古参であり、又同じ頃改易を受けたのに、
どうして、これほどまでの違いが起きたのか。
「仙石は小田原陣が始まる前に参陣したのに、
尾藤がお目見えしたのは北条降参の後だったためだ。」
「そもそも九州の時、仙石はやるべきではない戦をしたが、
尾藤はやるべき戦すらしなかった。
同じく法に背いたとは言え、尾藤の方には勇気が無い。
ここが根本的に違ったために、
秀吉の扱いも異なったのだ。」
人々、この二人の異なった運命について、この様に語り合ったそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!