慶長十九年十二月十六日、
大坂冬の陣において、大御所(家康)の下知として、
備前島、菅沼織部正の寄せ口より、大銃百挺を揃え城中に打ち入れた。
その他、玉造口の寄場よりも、大坂城の千畳敷を目当てに大銃を発した所、
即ち淀殿の屋形の内三の間に女中多く集まって居たのだが、
そこに弾落ちて茶箪笥を打ち砕いた。
女中各々肝を消し、淀殿の御居間も震え動いた。
淀殿は流石に女性であったので、その砌より御心弱くなられ、
御和談の為なら江戸にも御下向あるべしと、
仰せに成られたため、これを織田有楽、大野修理(治長)承り、
秀頼公に段々と諌めたのであるが、
御承引無かった。
この上は出頭の近臣に諫言致させるのが然るべしと、
その人選をしたが、渡辺内蔵助(糺)は、
去る鴨野合戦以来不首尾であり、また薄田隼人正は日頃の広言に似合わぬと、
城中の沙汰悪しきにより、
木村長門守(重成)宜しかるべしと、
この趣を申したが、重成は承諾しなかった。
「今、各々の宣う所は、最初に片桐(且元)が申していた所です。
只今に至って左様の儀、
この重成には申し上げることは出来ません。
各々両所が股肱の臣として、左様に惑われる事に、
御運の末を嘆き入り奉る。」
との旨を述べると、両人も汗顔赤面して、重ねての言葉もなかった。
その後、淀殿より色々仰せ進められたため、
ようやく秀頼公も、御和談の評議を行ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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