徳川家康暗殺疑惑によって、配流された大野治長であったが、
関ヶ原の戦いでは、許しを得て東軍として従軍した。
戦が始まり、治長は先陣に馳せて首級をあげたところ、
徳川家康は、
「匠作これへ。」
と言って、その武功を慰労し、
「もはや先手に進むに及ばず。」
と、板部岡江雪斎とともに、治長を本陣に留めた。
この時、首の主が誰なのか誰も知らなかったのだが、
後になって、実は宇喜多家の高知七郎左衛門という者だということがわかった。
その事を知った家康は、
「それほど名のある者であったなら、
あの時、しかと見ておくべきであった。」
と言ったので、
「治長は、首ひとつで二度も御賞詞を賜った。」
と人々は、みな羨んだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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