もし達って、その儀に及べば☆ | げむおた街道をゆく

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慶長十年(1605年)五月の七、八日頃、

大阪では、下民がしきりに荷物を運び出そうとし、人心が非常に動揺していた。
 

これはこの頃、徳川秀忠の将軍任官の祝儀として、豊臣秀頼公が伏見に上がられ、

その上で上洛して頂きたいとの事を、右府家康公の内存があり、

この旨に京都の大政所も従った。

これは故太閤の北政所である。
 

そして大坂に、これを伝えた所、秀頼公の母台(淀殿)は、これを拒否し、

「そのような儀は有るまじき事である。

もし達ってその儀に及べば、秀頼公を生害し、我が身も自害する。」

と頻りに宣われたため、これを聞いた下民達は大変に慌てふためいたのだ。
 

また秀頼公が伏見に上がられるのは勿体ないと、

上方大名共の中より、大坂に内通した者もあると噂された。

 

これによって秀頼公の上洛は、引き延べとなった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 豊臣家の残菊、淀殿

 

 

 

ごきげんよう!